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研究館より

表現スタッフ日記

2024.01.16

生きることと、共に生きること

2024年の季刊「生命誌」は、「共生」を考える記事を制作予定です。花と昆虫の関係に代表されるような共生の研究は、展示にしても記事にしても、好評をいただくテーマです。関係性の中で築かれた、生物の独自の生き方が多くの人の興味を引くと同時に、「生きものは支え合って生きている」といったメッセージが感じられるからだと思います。

過去にも何度か扱ったこのテーマを、今回はどのような切り口で見せるか、アイデア出しを重ねています。生物学の「共生」は、以前は互いに利益をもたらす関係(相利共生)を指していましたが、最近では片方にのみ利益のある「片利共生」や、「寄生」までも含めた全ての関わり方を「広義の共生」とする動きがあります(2018年の96号では、これら様々な関係性を整理しました)。また、これまで共生の文脈で捉えられることは少なかったものの、大気や土壌はそこにいる生物みんなでつくって使うものと捉えられます。すると、地球で生きること全てが共生じゃないか、といった見方が出てきて、スケールの広がりに唸らされます。

正解がなく、時に破滅的でもある生物の関わり合いの形は、私が思う平和な共生のイメージを軽々と超えてきます。「我々の生き様を、人間の考える浅い表現に落とし込むな」と全生物に言われているように感じます。そしてやはり人間である自分にとって、共生とは何かを考えずにはいられません。私は今のところ、共に生きるということは「互いに必要とすること」だという感覚をもっています。社会は多くの人が互いに支え合って成り立っているから、という意味ではなく、私は人間の感覚で、誰かを必要とすることそれ自体に眼を向けたいと思うのです。

高校生の時に授業で聞いた話を思い出しました。その先生は牧師で、ある時、事情により保護者を失った幼い兄弟を引き取りに行きました。子ども達は助けてくれる大人が来たとわかると、駆け寄ってきて先生にひしと抱きついたそうです。泣くことも騒ぐこともせず、「お腹が空いた」などの具体的な要求をすることもなく。この時、彼らは「食べ物をくれる人」や「守ってくれる人」といった人間の役割ではなく、人間の存在を丸ごと求めたのだと思います。そして全身で「あなたが必要」と示した。子どもがここまで追い込まれたこと自体は本当に胸が痛むのですが、彼らの行動が「共に生きたい」という人間の原初の望みを思い出させてくれる気がします。人は、本当の意味で誰かに必要とされた時(利用された時ではなく)、実は力強い何かを受け取るのではないでしょうか。

生物は様々な生き方を見せてくれ、いろいろなことを考えさせてくれますが、人間がどうやって共に生きるのかは、私たち自身が感じ、掴まなくてはいけないのだろうと思います。それでも、生物の共生を通して心にどんな風が吹くのかを楽しみにしていますし、個人的にも共に生きることを考え続けたいと思います。ぜひお付き合いください。