表現スタッフ日記
2025.09.02
思想のある仕事
大学の芸術学部に入学して、1年生の一番初めに受けた授業は、タイポグラフィの授業だったように記憶しています。印刷されたアルファベットの一文字一文字を粘着度の低い糊で台紙に貼り、ピンセットで平行に移動させ、文字と文字のスペースがもたらす効果をアナログな形で学びました。その頃は、すでにコンピュータでそんな作業はすべてできる時代でしたが、基礎を伝えるため、先生が取り入れた方法だったのだと思います。文字と文字のスペースを、視覚的に均等に美しく並べると、先生のOKがもらえます。文字の一つ一つは、丸かったり、棒だったり、四角かったりするため、数値として何ミリずつと同じスペースを開けても、視覚的には均等になりません。先生の目はとても厳しく、ほんの少しでも甘いと、OKがもらえませんでしたが、文字の一つ一つと向き合ったことは人生で初めてのことだったので、不思議な心地で取り組んだことを覚えています。
その訓練の後は、コンピュータ上で、同じ事をしました。テキストデータとして、文字と文字の間のスペースを一つずつ調整します。そこで思い知らされたのは、コンピュータでカタカタっと打った文章は、厳密には、人間が見て美しいと思うかたちで並んでいないということでした。もちろん、ただ情報を伝えるだけのものとしては何も問題は無いように見えますが、あの厳しい先生には決して許されるものではありません。時代が過ぎ、あの先生を唸らせるような新しい技術が登場したのかはわかりませんが、当時は「コンピュータに使われてはいけない。自分の目で、自分の手で決定するように」ということを言われ、そんなものなのか、とよく理解できていないながらも言われた通りを目指しました。
タイポグラフィに限らず、課題で出されたデザインに対しても、「これはコンピュータに作らされた感じだ」といった言葉もよく使われました。デザイン系のソフトの、機能の内側でできることにとどまっているとか、そのソフトで作りやすいデザインの延長にしかない、といった意味でした。仏様の手のひらを越えられない孫悟空のようです。過去に遡ると文字は全て手書きの時代があり、現在は生成AIなども登場するなど、ものを作る方法は時代とともに変化します。それでも、道具に使われることなく自由になることの大切さは、いつの時代にも共通するのではないかと思います。私はデザインは得意でなかったので仕事にすることはありませんでしたが、大学院で日本庭園について教えてくれた庭師の先生が庭づくりの現場で「この仕事には思想がある(ので良い)」、「この仕事には思想がない(ので良くない)」といった表現をされていて、どんな分野でも作り手の心の持ちようが作ったものに現れるものなのだなと、当たり前のようでいて見えない、壁の存在を感じました。
先日、落語を見に行く機会があり、噺家さんが古典を話し始めるや否や「自分はこの登場人物の、この振る舞いについては納得できないんですよ」と言われ、その言葉がとても印象に残りました。この人物はこの状況で、本当にそうできただろうか?という疑いー問いです。過去、多くの噺家さんが同じ題目を演じてこられたとしても、真剣に作品に向き合うと、どうしてもその違和感を無視できないということだったのだと思います。同じ題目でも、噺家さんが違うと全然違うものになると、友人が教えてくれました。その向き合い方が、結果としてその人の表現に繋がるのかな、と想像しました。
型を破るには、型を知る必要がある。知るために一度、とことん体になじませる。だからといって、そこに安住して動かないのもいけない。知って、体得して、絶えず問う。試す。その時にはじめて、新しいと感じられるものが作れるのかもしれません。今の時代には全く異なる新しい考え方や方法が生まれてきていることでしょう。とはいえ、人間の価値観は一夜で変わっても身体はすぐには変わらないと思うので、人間が主体となる全ての表現には、これまでのやり方がそれなりに合っていそうです。
道具も型も、縛るものであると同時に、表現にはなくてはならないものです。縛られながらも自由を切望することは、矛盾しているようでいて、自然なことにも感じます。言葉も同じで、言葉の限界に縛られながら、言葉で自由に表現する。身体もDNAも、重力も空気も、それがそれとして在るという状態から始めるしかないのです。何を言っているのかよくわからなくなってきました。
色々と考えるわりに、全然それができていないのが情けないところではありますが、ダメな部分は気づきに変えて、ポンコツなりにもしぶとく考え、暴れていきたいと思います。お後はよろしくないですが、本日はこの辺で。
その訓練の後は、コンピュータ上で、同じ事をしました。テキストデータとして、文字と文字の間のスペースを一つずつ調整します。そこで思い知らされたのは、コンピュータでカタカタっと打った文章は、厳密には、人間が見て美しいと思うかたちで並んでいないということでした。もちろん、ただ情報を伝えるだけのものとしては何も問題は無いように見えますが、あの厳しい先生には決して許されるものではありません。時代が過ぎ、あの先生を唸らせるような新しい技術が登場したのかはわかりませんが、当時は「コンピュータに使われてはいけない。自分の目で、自分の手で決定するように」ということを言われ、そんなものなのか、とよく理解できていないながらも言われた通りを目指しました。
タイポグラフィに限らず、課題で出されたデザインに対しても、「これはコンピュータに作らされた感じだ」といった言葉もよく使われました。デザイン系のソフトの、機能の内側でできることにとどまっているとか、そのソフトで作りやすいデザインの延長にしかない、といった意味でした。仏様の手のひらを越えられない孫悟空のようです。過去に遡ると文字は全て手書きの時代があり、現在は生成AIなども登場するなど、ものを作る方法は時代とともに変化します。それでも、道具に使われることなく自由になることの大切さは、いつの時代にも共通するのではないかと思います。私はデザインは得意でなかったので仕事にすることはありませんでしたが、大学院で日本庭園について教えてくれた庭師の先生が庭づくりの現場で「この仕事には思想がある(ので良い)」、「この仕事には思想がない(ので良くない)」といった表現をされていて、どんな分野でも作り手の心の持ちようが作ったものに現れるものなのだなと、当たり前のようでいて見えない、壁の存在を感じました。
先日、落語を見に行く機会があり、噺家さんが古典を話し始めるや否や「自分はこの登場人物の、この振る舞いについては納得できないんですよ」と言われ、その言葉がとても印象に残りました。この人物はこの状況で、本当にそうできただろうか?という疑いー問いです。過去、多くの噺家さんが同じ題目を演じてこられたとしても、真剣に作品に向き合うと、どうしてもその違和感を無視できないということだったのだと思います。同じ題目でも、噺家さんが違うと全然違うものになると、友人が教えてくれました。その向き合い方が、結果としてその人の表現に繋がるのかな、と想像しました。
型を破るには、型を知る必要がある。知るために一度、とことん体になじませる。だからといって、そこに安住して動かないのもいけない。知って、体得して、絶えず問う。試す。その時にはじめて、新しいと感じられるものが作れるのかもしれません。今の時代には全く異なる新しい考え方や方法が生まれてきていることでしょう。とはいえ、人間の価値観は一夜で変わっても身体はすぐには変わらないと思うので、人間が主体となる全ての表現には、これまでのやり方がそれなりに合っていそうです。
道具も型も、縛るものであると同時に、表現にはなくてはならないものです。縛られながらも自由を切望することは、矛盾しているようでいて、自然なことにも感じます。言葉も同じで、言葉の限界に縛られながら、言葉で自由に表現する。身体もDNAも、重力も空気も、それがそれとして在るという状態から始めるしかないのです。何を言っているのかよくわからなくなってきました。
色々と考えるわりに、全然それができていないのが情けないところではありますが、ダメな部分は気づきに変えて、ポンコツなりにもしぶとく考え、暴れていきたいと思います。お後はよろしくないですが、本日はこの辺で。
奥井かおり (研究員)
表現を通して生きものを考えるセクター