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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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賢治は人間の手本である

2013年8月13日

中村桂子

「賢治は人間の手本である」。井上ひさしコレクションの「人間の巻」にこんな文がありました。1200字ほどの短い文ですが、こんなことが書いてあります。要約です。

「賢治は科学者でした。けれども科学が独走するとろくなことにはなりません。科学がはしゃぎたてるのをいましめる役目を賢治の中で果たしたのが宗教者としての部分でした。この逆もあり、宗教にこりかたまると独善の権化になります。賢治の中ではこの二つが互いにお目付け役をし、この二つの中間に文学がありました。

バリ島の人は農夫、芸能者、宗教者の三役をこなしていますが、賢治はこれに科学者を加えて四役がよいと信じていたのではないでしょうか。科学、宗教、芸能、労働はすべて大切です。けれどもそれを、手分けして受け持つのではなんにもなりません。一人がこの四者を自分という小宇宙の中で競い合わせることが重要なのです。人間は多面体として生きるのがよろしいと賢治は説いています。」

井上ひさしは、これは賢治の思いに勝手に補助線を引いた自分の見方だと断っていますが、私もこの見方に賛成です。そして井上ひさしがそれを人間の手本であると言っているのにも同感です。このところ科学者、科学技術者が信頼されないのは、科学者としてダメだからではなく、その人が「人間」としての共感を呼ばないからだと思うのです。芸能者や宗教者として一人前になるのは難しいと思いますが、科学者が生活者の感覚を持つことは不可欠だと思います。吉本隆明が賢治のようになりたいと思ったけれど到底無理と諦めたと言っていますから、これはそう簡単ではないのでしょうがどうしてもそうありたいと思います。生命誌では、生活者であり考える人であることは研究者の条件だと考えています。

そこで、「科学者が人間であること」を書き岩波新書で出します。8月19日にできるとのことです。お眼に止まりましたら、パラパラと見て下さい。賢治のことも書きました(最後ちょっとCMになりました)。

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