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ラボ日記

研究セクターのスタッフが、日常で思ったことや実験の現場の様子を紹介します。
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【「はたらき」について】

橋本主税

「「かたち」とはどういうものか」について一昨年のラボ日記で簡単に議論しました。今回は「「はたらき」って何?」という議論を進めてみましょう。

以前の議論で「かたち」とは「構成要素同士の関係性である」としました。したがって「囲碁の桂馬」は「かたち」なのです。では、将棋の桂馬はどうでしょうか?ルールという「意味」が存在するので将棋という体系は「かたち」です。しかし、そこに存在する駒はそれ自体では意味を持ちません。将棋の駒それ自体を取り出せば携帯電話のストラップにしてもおかしくありません。しかし、取り出してしまえば将棋の駒としての意味は持ちません。将棋という体系の中に置かれなければ、桂馬には桂馬としての意味は存在し得ないのです。このように、意味はすなわち「かたち」であり、「かたち」を考えるのにその構成要素を単独で取り出していくら考えても何も分からないのです。これが、これまでに見てきた「かたち」に関する外観です。

将棋の駒についてもうすこし考察しましょう。桂馬という駒はそれ自体が桂馬なのではなく、将棋の体系におかれて初めて「桂馬という意味」を持つものです。では、その「桂馬という意味」とは何でしょう?それはすなわち、「前に二つ横にひとつ動ける能力」あるいは単に「動き」と考えても構わないでしょう。「動き」はすなわち「はたらき」である事にはどなたも異存はないと思います。この「動き」が成立する為には時間軸が間違いなく必要です。時間を止めたら動けません。また、時間を止めたら、桂馬の駒は将棋盤上の任意の一点を占めるに過ぎず、そこに「桂馬のかたち」は見いだせません。

囲碁では、「石の並び」をもって桂馬の「かたち」と意味づけされます。この際には桂馬の並び(関係性)が同一時間において存在しています。逆に将棋の桂馬の動きは、動く前の場所と動いた後の場所を同時に示すことができないので、同一時間(ある瞬間)に桂馬の「かたち」を見ることは不可能です。しかし将棋という体系(「かたち」)が桂馬に桂馬たるべき「意味」を与え、潜在的「かたち」を与える。そして、そこに時間軸を伴ったとき、桂馬は「はたらき」として具現し得るのです。

クエン酸回路では、様々な酵素によって複数の直列的反応が行なわれています。回路と呼ばれる以上は、そこには図に示すと円状の「かたち」が現われます。個々の反応を絵に描いてみると結果的にクエン酸から始まってクエン酸に戻るのでクエン酸「回路」と呼ばれるのです。さて、この「かたち」を描くためには時間が止まっていなければなりません。しかし、同時にこの「かたち」は酵素の基質と産物の時間を伴う関係によって支持されます。すなわちクエン酸とイソクエン酸が存在しても、それらの関係性はアコニット酸ヒドラターゼと呼ばれる酵素によってクエン酸がイソクエン酸に変化する事実を知らずして成立し得ないのである(イソクエン酸がクエン酸になることはないということ)。しかしこの酵素は、クエン酸をイソクエン酸に変化させるので、酵素反応前ならクエン酸しか存在せず、酵素反応後ならイソクエン酸しか存在し得ません。単一の反応を見ると、クエン酸とイソクエン酸は同時には存在し得ないのです。言うまでもないことですが、この反応には時間を必要とします。時間軸を伴う「酵素のはたらき」によって、クエン酸とイソクエン酸の関係性が規定されるのです。また、しかし、このような複数の反応がシステム(回路)を作った場合を考えた場合、イソクエン酸は周り回ってクエン酸となることが分かりますので、結果としてはどの瞬間においても回路としての「かたち」が存在するのです。さて、「かたち」と「はたらき」の関係が分からなくなってきました。

かたちの情報は視覚情報であり、はたらきの情報は聴覚情報であると言われます。視覚情報は写真からでも得られますし、死体を解剖しても得らます(すなわち時間が止まっていても構わない)が、聴覚は音の波の情報であるために時間が止まった瞬間に情報が成立しないので、はたらきを知るための対象は死体では困るのです。

ヒトは、己の言語体系を駆使して己の脳で考えます。あるいは己の脳が処理した情報のみしかヒトは認識できません。やはり「かたち」も「はたらき」も本質的には同一のものを、視覚情報として認識するのかそれとも聴覚情報として認識するのかによって異なる事象としているだけなのかもしれません。聞くところによると、人の脳において視覚情報を処理する領域と聴覚情報を処理する領域は物理的に離れているばかりか、互いに連絡ができないそうです。とすれば、ある現象の本質をそのままに人の脳は理解することができず、脳の情報処理系の都合によってそれを「かたち」と認識するか「はたらき」と認識するか便宜的に判断しているだけなのかもしれません。

かたちを扱う解剖学とはたらきを扱う生理学は医学の中では最も古い学問分野です。これら二つの学問体系が生じたのは、ヒトの脳による必然なのでしょうか?


*「かたち」と「はたらき」の観点から「ゲノムの意味」について研究員レクチャーで考察します。興味のある方はお越し下さい。




[脳の形はどうやってできるのかラボ 橋本主税]

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