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進化研究を覗く

顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。

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文字発明からバーチャルメディアへII

2019年2月15日

近代科学の誕生と印刷術

中国、日本のような複雑な文字が現在も残って進化を続けていることから、文字がその国の文化と強く作用しあって進化していることがわかってもらえたと思う。すなわち、文字が固有の文化形成に大きく寄与し、そうして生まれた文化が文字の進化を導く。同じことは、今や世界の半分以上が使用する、表音文字としてはユニバーサル完成形といってもいいギリシャ語のアルファベットも同じだ。すなわちアルファベットがギリシャに生まれ発展する過程では、ギリシャ固有の文化の発展過程がそれに統合されており、ギリシャ文化の特徴を理解すれば、その文化にとってのアルファベットの力を知ることが出来るはずだ。

すでに述べたように、ギリシャ文字が発明された背景の一つに、ギリシャの魂として伝えられていた、ホメロスの叙事詩がある。この叙事詩はシュリーマンのトロヤ発掘で有名な史実も含んでいるが、神々の登場する神話的側面も多く、この点では古事記や日本書記に近い。しかし、古事記や日本書紀が当時の権力者により編纂された(全て権力内で使われていた漢文で書かれている)のに対し、ホメロスの叙事詩は、独立し、争い合うこともしばしばだった独立小国家が、ギリシャ民族のアイデンティティーとして口伝してきた物語を、新しい使いやすい文字で書き写した点で、日本の古事記とは大きく異なる。言い換えると、文化が政治の影響を強く受けていた日本や中国と異なり(例えば中国の文人と科挙としての役人は切り離せない。古今和歌集を編纂した藤原定家も文人かつ官僚だった)、ギリシャでは文化と政治の分離が進んでいたように思う。この意味で、多くの人が簡単に使えるアルファベットがギリシャ文化の精神を代表するのもうなずける。この印象は全て結果論なのだが、この印象が当たっているのかどうか、もう少しギリシャ文化の特徴を見てみよう。

ギリシャ哲学は、ギリシャ本土ではなく現在はトルコ領にある小アジアのミレトス、イオニアで始まった(図1)。しかし、なぜあれほど多彩な哲学者達 が、ミレトスやイオニアで生まれたのかは歴史上最も大きな謎だ。あえて理由を求めるとすると、ギリシャ最初の哲学者で「万物は水から出来ている」とするテーゼで有名なタレスが活動したミレトスを始め、小アジアに散らばるギリシャ都市は、巨大帝国ペルシャの強い圧力を受けるとともに、それぞれの国では自由な市民のなかの富裕層と貧困層の間で熾烈な血で血を洗う闘争が行われていた時代だったようだ。すなわち、ギリシャ語を共通言語とする民族が、専制体制でひとつにまとまるのではなく(これはアレキサンダー王で実現するが)、独立小国家を認める一種の共和連合を目指し、それぞれの国家内では、市民の民主制を目指した産みの過程にあったと言える。すなわち、民主的市民社会を成立させるため、高いレベルの「早く、広く、正確」なコミュニケーションが求められていた。アルファベットのような習い易い、しかも話し言葉を忠実に書き写せる表記法の発明は、文字を使う層の拡大だけでなく、民主制を支える活発なコミュニケーションに大きく寄与したと思う。それまでの世界を支配した政治体制では、限られた出し手がトップダウンで記録し、伝えるという政治目的に使われた文字が、個人間のコミュニケーションの手段として使われるようになった。


図1 ミレトス派とイオニア派

この双方向のコミュニケーションから結論を出すという民主的方法は、対話という形式で書かれたギリシャ哲学を代表するプラトンの著作から伺うことが出来る(少なくとも私が読んだ何冊かのプラトンの著作は、12月に紹介したパイドロスも含め、すべて対話形式で書かれていた)。そしてこれらの著作に書かれている対話は、全く平等な土俵で行われる議論で、身分や富によって影響されない。すなわち、この議論に入ったとたん、全員平等になる。アルファベットの発明により、身分や富を超えた平等な仲間同士の議論が活発になり、この文字の特徴を最大に享受する文化を担うエリートが形成されているのが感じられる。確かに和歌の世界でも相聞歌という対話形式は存在するが、ギリシャでの対話は近代を先取り、個人が話し言葉で行う対話のそのままの写しで、アルファベットがこの生き生きとした対話にふさわしい表記法だったことが納得できる。

ギリシャ市民は勿論政治的には平等だったが、この中で文化を担う文化エリートと、自由な市民でもそれに参加できない取り残された人たちの差別も生まれていることがプラトンの著作からよくわかる。例えば。プラトンの対話篇『プロタゴラス』の中に
「大衆なんてものは、言ってみれば何の感受性もない連中なのであって、単に実力者たちの語る言葉を繰り返しているに過ぎないのだから」(光文社古典新訳文庫 中澤務訳)
とプロタゴラス(ソフィスト)が述べる場面がある。
すなわち身分や富にかかわらず、文化を担う責任を背負う文化エリートがギリシャ哲学の中核に存在している。

 また同じプロタゴラスには、
「ここにおられる皆さん、私は、あなた方は皆同族であり、親戚であり、同じ国の民だと思っている。ただしそれは、法律上そうだという意味ではなく、自然本来の姿においてはそうだという意味である。・・・・・法律は人々を支配する暴君であり、自然本来の姿に反するたくさんのことを強要するのだ」
という一文がある。ここにはギリシャ哲学を担う人々が、完全に政治から分離されるべきであることが明言されている。この政治や経済から自由な個人が、互いにそれぞれの価値を尊重し、議論を重ねることで、世の中で起こっている実に様々な問題に気づき、それについて考えたのがギリシャ哲学だと言える。民主主義で必要とされる討論や、対話を通じて行われるギリシャ哲学に必要な活発な双方向的コミュニケーションを支えたのがアルファベットで、その後民主主義がアルファベットを使う西欧で生まれたのも、アルファベットという表記法が本来持っている力の結果だったと思う。

さらに、アルファベットは大衆化という意味で優れており、それはギリシャやローマで劇という形式の文学が多くの市民に憩いを提供していたことからわかる (図2)。


図2:イタリアシチリア島にあるギリシャのコロニー、シラクサに存在する野外劇場:アテネのエピダウルスを始め、ギリシャローマの遺跡に劇場は欠かせない。(筆者撮影)

このように、合理的で学習しやすいアルファベットは、文字を大衆化させ、その進化を加速させるためには最適の手段だったと思う。ただ、これに加えて書籍の普及も重要な役割を演ずる。ギリシャローマ時代の図書館の役割については既に述べたが、やはりプロタゴラスを読むと、エリートにとっての、話しことば、文字、そして書籍が文化のセットとしていかに重要だったかがよくわかる。

「子供は話し言葉はすでに学んでいるわけだが、今度は文字を学んで、書き言葉を理解できるようになる。すると先生は子供の机の上に優れた詩人たちの先品を置き、それを読ませて暗記させるのだ」

文字を習い、本を読み、文化を担う新しい人たちが尊敬を集め、政治権力から独立したサークルを形成できたのがギリシャ文化だ。これは平安時代の我が国の文化エリートによる文字の大衆化も同じだが、大衆化の規模とその後のポテンシャルでアルファベットは勝っていたと思う。

こうして生まれた、文字と出版のセットによる、文字と文化の大衆化は、グーテンベルグの活版印刷の発明が加わることで、1つの頂点に達しさらに加速する。これは、それ以後の出版文化の広がりと、教育の義務化、文化の大衆化の過程に見ることが出来るが、詳しくは議論しない。ただ、グーテンベルグの印刷術以降、この大衆化には印刷やコミュニケーション技術の発展が欠かせなかった。すなわち、文字の進化から生まれた技術が、文字の大衆化を促すというサイクルが回り始める(図3)。技術について考えてみると、親方から直接習うというマイスター制度は勿論出来上がっていたが、様々なアイデアや経験を文字と書物で書き残すことは、技術を完成させ、改良しながら世代や地域を越えて伝え、技術の蓄積を加速させるためには必須だ。この文字とその大衆化により可能になった技術が、文字と書物というセットの生産にフィードバックされたのが、グーテンベルグの印刷術の発明といえるだろう。この印刷技術との統合が文字進化の第四段階で、技術の利用による一段階高いレベルの大衆化の加速の契機となった。そして、前回述べたように、17世紀の科学誕生もこの文字進化第四段階から生まれた最も大きな成果と言える。そして科学が文字の進化と融合することで、印刷術と全く質的に異なるコミュニケーション手段が誕生する。

文字や印刷技術には科学が必要ないとは言わないが、計算や幾何学が技術開発に使われていたとしても、ガリレオ以来確立した科学の方法で得られた成果が技術化され、私達の生活に影響し始めるのは19世紀以降の話だ。実際18世紀の産業革命では蒸気機関など多くの革命的機械が開発されたが、例えば蒸気機関車をとっても、経験と数理を基本とした技術で、熱力学の研究成果が蒸気機関車を発明させたわけではない(ワットの蒸気を吐き出すヤカンの話しを思いだそう)。実際には当時の科学と技術の関係は逆で、例えばワットの蒸気機関の効率について考え始めたカルノーが熱力学を始めている。

しかし19世紀に入ると科学成果を基盤にした技術が出るようになる。特に化学や電気物理学では、発電、ボルタによる電池、ベルによる電話などが最も有名な例だろう。そして20世紀に入ると、科学的成果の技術化という流れが定着する。例えば原子力の利用は、原子物理学なしにはなかったし、医学で言えばX線の発見とレントゲンが典型的な例だ。この科学の時代の到来で、生産現場は機械化され、消費経済を支える第2次産業革命が急速に世界の生産性を上昇させる。

そして20世紀のちょうど真ん中で、19世紀には考えもしなかった全く新しい科学、情報科学が、クロード・シャノン、アラン・チューリングにより開拓される。これにより、物理的現象も、生命も、それに統合されている情報は独立して扱えることが明らかにされる。こうして生まれた20世紀の情報科学は私達が実際に経験したように、オーガナイザーとして他の科学分野を統合し、最終的に21世紀前半を特徴付ける製品、スマートフォンを誕生させ、機械化が私達個人の生活に浸透する第3次産業革命をもたらすことになる。当然、文字・書物も、第2次、第3次の産業革命の影響を受け、大衆化を加速させる。


図3は、技術と、科学が統合されて始まった文字進化の第4/5段階の構造と、これに情報科学技術が統合されることにより始まっているビッグバンを示した。

しかし情報科学をオーガナイザーとして生まれた技術は、今や様々なバーチャルメディアや、SNSなどの全く新しいコミュニケーションツールに代表される個人の利用する製品の数々を通して、文字や書物の進化・大衆化を、これまで考えもしなかったレベルに高めようとしている。次回はこれについて述べる。

[ 西川 伸一 ]

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