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表現スタッフ日記

展示季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。

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【いきいきと動物を描く】

2014年9月1日

村田英克

8月9日、10日の2日間、いいだ人形劇フェスタ2014で「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」を再演いたしました。プラハを拠点に独自の創作舞台で活躍する人形劇師沢則行さん,生物学から音楽家へ転身した若手チェリスト谷口賢記さん、その他たくさんの人々の力を集めて作り上げた生命誌の舞台です。BRH20周年記念の3月の初演が縁でご招待頂いた公演です。長野県の飯田市は、三百年も続く人形浄瑠璃など人形劇のまちとしての伝統は深く、ご招待頂いたフェスタも三〇年以上の歴史があり、今や日本最大の人形劇の国際フェスティバル。今年は、何と6日間で480の公演があったそうです。ここでは、人形劇のプロ・アマチュア、芝居を観る眼の肥えた人々、同時に「生命誌」の予備知識を持たない人がお客様です。そういう公演で、以下は、開演前の会場に向けた沢さんの挨拶から抜粋です。僕は、動物役の語りの一人として、緞帳の裏で緊張しながら聞いていました。

「今日、人形を遣う僕以外の三人は、実は、舞台で役者やったことも朗読したこともない素人です。たぶん皆さんが最後アンケートに、5段階の3ぐらいに○して、何だかわかんないけど素人芸だった。みたいに感想書かれると思うんですけど…甘んじて受けよう! どっからでも、かかってこい!(会場拍手) そりゃ冗談ですが(笑)。僕がプロの役者を使わなかったのは、この人たちでしかできない芝居をしたいと思ったからなんです…」この最後の言葉は、ほんとうに嬉しかったですね。沢さんがこんな風に笑いをとりながら僕らと観客の間を切り結んでくれたおかげで、緊張もほぐれて朗読に専念することができました。

主人公のゴーシュは動物との交渉を通して、演奏家として、人間として成長します。僕の役は、ネコ、カッコウ、タヌキ、ネズミの順で登場する動物の語りです。それぞれ個性的な動物とのやりとりによって、ゴーシュが変わってゆく、それが感じられる表現でなければなりません。沢さんの人形の動き、ゴーシュ役の中村館長の語りを意識しながら、何より、それぞれの動物をいきいきと描くということに努めました。飯田での二回の公演を終えて、気になるアンケートですが、まずびっくりしたのはアンケートの回収率の高さで観客の熱心さが伺えます。評価も新鮮に楽しんで頂けたことが伺える内容が多く、生命誌の心が、お芝居として、作品として届いたと実感できました。ありがとうございます。

8月23日には、高槻現代劇場で地元高槻の方々への感謝の気持ちを込めての公演を行いました。高槻のアンケートでも、とても楽しそうに語っている様子がよかったという趣旨のアンケートを頂き少しほっとしました。これまでこのお芝居にたくさんの方にご来場を頂き、また本番の舞台を観ただけでは伺えないようなところで実に多くの方々にご尽力頂くことで各公演を実現することができ、改めて皆様に感謝いたします、ありがとうございます。

ところで、『複製技術時代の芸術作品』(1936)の中でヴァルター・ベンヤミンが展開している重要な概念「アウラ」—オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重み—をご存知の方も多いと思います。「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」もこれまでに5回上演しましたが、5回みな違います。だから毎回真剣勝負。絵画や演劇のような表現は「一回性」を宿すのです。さらに、ロラン・バルトが、写真論『明るい部屋』(1980)の中で示す「プンクトゥム」という概念、—「かつてそれがあった」という個別事象のかけがえのなさを表徴する能力も、複製技術時代に生きのびた別種の「アウラ」と考えられます。R・バルトは、写真についての考察を進める上で「プンクトゥム」と「ストゥディウム」という対立概念を駆使していますが、核にあるのは「愛」です。生命誌も、核に「愛づる」があります。僕は、「生命誌マンダラ」が表現している個別性が「プンクトゥム」に、普遍性が「ストゥディウム」に対応するのではなかろうかと、二元論の限界を抱える頭で空想しています。二冊の書籍の話題を出したのは、今回ご報告した舞台づくりの過程や館の日常を題材に、別に取り組んでいる長編記録映画「生命誌を編む」の紹介につなぎたかったからです。少し先の公開ですが、「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」をご覧頂いた方も、来春、映画に足を運んで頂けましたら、また別の発見があると思います。映画の完成そして公開が近づきましたらまたご案内します。最後に、さまざまな媒体で作品づくりを行う者としては、どの媒体においても、中味に形を与えるもの作りにおいて「アウラ」または、複製技術時代の芸術作品における「別種のアウラ」が出るまでやらなきゃあほんとうじゃないだろうと思っています。

[ 村田英克 ]

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