季刊誌「生命誌」通 巻15号 
岡田節人の音楽放談[拡大版]
Column Special
音楽の架け橋で科学へ
ハイドン像
【ハイドン像】
(ウィーン・マリアルフ教会)

(写真=木之下晃)
 音楽を愛好される方々の多くにとって、科学なんておよそなんのゆかりもない存在であるはずです。逆が真の場合も少なからずあるでしょう。私自身にしても、これら二つは、それぞれの独立した天体であるかの如くに私のなかに併存(共存ではない)していて、両者への情熱と関心を関係づける屁理屈を講じるようなことは本当は嫌なのです。そんなことをするのは、私にとってことさらに大切な、これら二つへの不敬であり、無礼である、というのが私の感性の基本にあるのです。それでも、ごく自然に、共通 の思いを両者に馳せることもときにはあります。これはごく抽象的な私の感性のなせるところで、蝶をテーマにした音楽を昆虫学に結びつけるような単純で具体的なお話―これはこれで面白いが―ではないのです。
 そこで、およそこうした具体的な結びつきとてありそうにもない、つまり典型的な純粋音楽である ハイドン(1732〜1809)のシンフォニーを聴いてみましょう。そもそもが、こうした古典の音楽のタイトルが芸術作品のそれとしては異常です。だって、交響曲第17番へ長調などと呼んでいるのですから。私たちは、このことに慣れてしまっているのですが、本当なんと奇妙な話ではありませんか。これでは電話番号となんにも違いがない。これが創造的傑作品のタイトルなのだって!つまり、このことは古典音楽の伝統のもつ徹底した抽象性を示すことにほかならないでしょう。
 抽象といえばなんといっても科学です。自然という、もっとも具体的な実体の正体をつきとめて、抽象化した説明を与えることは、近代科学の伝統の目標です。
 これらの二つの抽象化への創造的行為は、どう見たって西欧の、それも僧院を中心として、17〜18世紀にほぼ形を整えたものだ、ということを改めて銘記しましょう。
 そこでハイドンの交響曲です。ハイドンの交響曲には、電話番号の抽象的タイトルだけでなく、具体的なニック・ネームのついたものも少なからずあります。もっともこれらのネーミングは作曲家のかかわり知らざるところ、創造のためのモチーフとは無関係で、たいていは他人のつけた文字どおりのあだ名なのですが、これらはほかよりポピュラーになっています。
 ハイドンのシンフォニーの第22番(変ホ長調)には、誰がつけたかはわからぬ ままに“哲学者”というニック・ネームがついています。この曲の第1楽章はじつに荘重なる音色と、論理的といってよい、教会ソナタと呼ばれる形式の故に、このニック・ネームはじつにふさわしいのです。あるハイドン研究者によると、ハイドンは「自分はかつて父なる神が前非を悔いない罪人に語りかけているシンフォニーを作曲したことがある」と言ったそうですが、これはこの楽章を指すということになっています。
ハイドン像
【ベルク教会】
ハイドンが宮廷音楽師として仕えたエステルハージ家の菩提所であり、ハイドンの霊廟もある。この教会で、「戦争ミサ」「テレジアンミサ」「天地創造ミサ」などが初演された。
(写真=木之下晃)
 なるほど、この曲は、神と罪人との対話としてじつにふさわしい。しかし、この音楽を「科学」を象徴するもの、と聴きとっても、現在の私たちにはまったく自然であると私には思えるのです。作曲されたのが、哲学イコール科学の時代であったという事実に加えて、この音楽からは抽象的な論理性への、強烈な憧憬が聞き取れると感じています。テーマが何回か調性を変えながら再帰する展開は、じつに深い情緒をたたえていますが、それは人間同士の愛などとは全然違う、学理の追求という、人間のもつもう一つのすごい情熱である、と言ってもじつにぴったりしています。
 このシンフォニーの第2楽章以後は、ハイドンならではの―モーツァルトにはない―無邪気な活気と、いたずらに溢れた音楽となります。ここには18世紀のヨーロッパ社会の人間生活の中核の一つでもある、狩の音楽があります。狩、それはもちろん食糧を得ることに当初の目的はあったでしょうが、やがて野山をかけめぐる動物たちとの、ダイナミックな触れ合いは、人の心をとらえて放さぬ 魅力ともなりました。
 狩の音楽を、なにも狩の対象である鳥獣たちだけに留めておく必要はありますまい。これは活発な動物自然と人間とのスリルに富んだ対応を表現する喜びの音楽ともなりましょう。従って、このハイドンの22番のシンフォニーに昆虫採集という誰しもの身近にある一種の狩(第2楽章以後)から分子生物学の学理の追求(第1楽章)までを聴いて楽しみませんか。
 とはいっても、こうした抽象的な論議は、多かれ少なかれこじつけを伴なっています。こじつけでもなく、またホタルのワルツとか、トンボのポルカといった具体そのものを通 じてでもなく、音楽と自然・科学との橋渡しの第三の架け橋とでもいうべきものはないのでしょうか?
生命誌研究館
【生命誌研究館】
生命誌研究館は現代の僧院といえるかもしれない。
 生命誌研究館はこれにあたる事業を創作し、1995年の4月に高槻市現代劇場で上演しました。これは、皆様よくご存じの、プロコフィエフ作曲の“ピーターと狼”この子供のための童話の朗読と音楽をタネにしたものなのです。その童話を、生命誌研究館の前サイエンス・ディレクター茂木和行(現・聖徳大学)は、彼のありあまる才のままに、生物進化の物語に変え、その結果 “ピーターと狼・生命誌版”が創作されたというわけです。
 高槻市での上演に先立って、京都市交響楽団練習場(京都市)においてそのリハーサルを行いました。中村桂子副館長のナレーションは素晴らしいもので、本番における成功を十分に予感させました。その際、私はじつに得がたい感激的な経験をもちました。
 リハーサルのあと、チェロの首席奏者(当時)柳田耕治らは私たちに話しかけました。
 「私たちは過去、何十遍となくこの曲を演奏してきました。しかし、今日はまったく新しい曲を演奏するよな新鮮な喜びをもちました。だって、狼はホルンで、小鳥たちはフルートでという代わりに、恐竜はホルンで、バクテリアはフルートでというナレーションを耳にするや否や、私たちはまったく新しい別 世界に入った境地で演奏できました」と。
 この感想は、“ピーターと狼・生命誌版”への素晴らしいオマージュです。そしてこのことは、音楽―自然―科学という架け橋は、私たちの感性のなかで絶対に存在できること、この架け橋は私たちの美と智への憧憬と追究の、今までにない新しい道を開いていると確信できたのです。
生命誌研究館
【サイエンスオペラ】
科学と芸術を総合させた「サイエンスオペラ」(1995年4月)。
この舞台で生命誌版「ピーターと狼」が上演された。
(写真=外賀嘉起)
(おかだ・ときんど/生命誌研究館館長)
なお、1997年3月22日の「サイエンスonミュージック」(東京・JTアートホールアフィニス)では、同じメンバー、つまり中村副館長のナレーションと、京都市交響楽団(井上道義指揮)で再演されます。そのとき岡田館長は、ハイドンの交響曲22番にのせて、細胞の和声の調和について話します。

Column Special

CLOSE

Javascriptをオフにしている方はブラウザの「閉じる」ボタンでウインドウを閉じてください。