1. トップ
  2. 季刊「生命誌」
  3. 季刊「生命誌」79号
  4. TALK 歴史と関係の中で変わる言葉と生きもの

TALK

歴史と関係の中で変わる
言葉と生きもの

山口仲美明治大学 国際日本学部教授
中村桂子JT生命誌研究館館長

1.語誌と生命誌—言葉は生きもの

中村

生命誌研究館を始めて今年で20年。10年前に生きているとはどういうことかを考えるなら動詞でなければならないと気づき、毎年一つ動詞でテーマを決めてきました。最初に選んだ動詞が研究館の基本である「愛づる」、今年は節目の年を迎え新たな展開をという気持ちで「ひらく」としました。以前から山口さんに「愛づる」を含めてやまと言葉について教えていただきたいと思っていて、やっと今日実現です。

山口

生命誌という言葉にはなじみがあるのだけれど実は中味をよく知らない。例えばゾウリムシが生まれてから死ぬまでの歴史、そういう生きものごとの歴史が「生命誌」だと思っていいですか。

中村

面白い言い方ね。ゾウリムシにも私たちヒトにも、それぞれの個体が生まれてから死ぬまでの歴史がありますね。仲美さんには仲美さんの歴史がある。だけど、あなたが生まれる前にはご両親がいらっしゃるでしょう。それより、ずっとずっと前から続いている。

山口

分かった、それら個々の生きものごとの歴史を総合した生命の歴史を考えていくのね。それで、「誌」を使う。

中村

そうです、だから歴史物語。英語では、Biohistoryです。

山口

どうして私が「生命誌」という言葉にこだわったかというと、言葉にも「語誌」というのがあるのです。

中村

今度はこちらがそれは何と聞く番ね。

山口

例えば、「愛する」という言葉があるでしょう。この言葉がどこから来て、どのような意味変化をしながら現代にいたるかという歴史をたどるの。

中村

なるほど。生きものの場合、例えばヒトはどこから生まれたのかと考えると、少なくとも今いる生きものの中ではチンパンジーがヒトに一番近いので、チンパンジーとヒトの共通祖先がどこかにいただろうと。もっと遡ると、ほ乳類の共通の祖先があり、は虫類と共通祖先がある、そうやっていくと生命の誕生に巡り着きます。歴史をたどると、関わり合いも見えてくる。

山口

語誌も同じです。例えば、「夫婦(めおと)」という言葉は生まれてから変化して現代にいたっている。そして人間の関係を表す言葉ですから、「愛する」という言葉ともどこかでつながっている。

中村

歴史と関係、同じね。

山口

だから、生命誌と語誌ってすごく興味深くて。

中村

私も興味がわいてきました。語誌っていつからある言葉ですか。

山口

そんなに古くないと思います。こういう研究ジャンルが日本で意識され始めたのが、せいぜい数十年前くらいですから。語源とは違うのね。語源はある言葉がどうやって出来てきたのかという問題を追究する。例えば「はかなし」は仕事の進度を意味する「はか」に形容詞の「無し」がついて出来てきたとなる。一方語誌は、歴史をたどる。「愛する」の場合、中国から輸入した言葉「愛」を元にして、これを日本語化してサ変動詞にする。「愛する」の誕生です。「愛する」の最初の頃の意味は、「部屋に籠めて愛しけり」というように用いられており、肉欲的な意味をもっていました。明治時代以降、キリスト教や西洋文学の影響を受けて、「神の愛」というふうに精神的な意味が加わる。

中村

なるほど。

山口

すると、「愛する」が精神性をもった美しい意味の言葉として飛翔していくわけです。こういうふうに一つの言葉は生まれてから様々な変容を重ねながら生きてゆく。その歴史をそれぞれたどっていくのが語誌です。

中村

社会と共に変わるのね。

山口

そう。逆に変容しない言葉もある。例えば「痛い」。これって人間が生まれた時からほしい言葉ですよね。

中村

そうですね、子どもの時から使いますね。

山口

ですから「痛い」は、苦痛を与えられた時に使う言葉として発生し、そのまま意味変化せずに現代にいたる。「痛い」、「寒い」などの感覚を表す言葉は生まれてから現代までの意味変化が少ない。それに対して感情を表す言葉は意味変化が激しいジャンルです。例えば、「憎い」は、最初は、「気に入らない」「癪に障る」なんていう軽い憎悪の情を表していたのに、時代を経過していくうちに、だんだん憎悪の程度が重くなっていった。

中村

体感は頑固に続き、情感は変化しやすいということかしら。わかりますね。

山口

 

このように言葉の歴史を一つずつ見ていくと、今度はそれらを集めた感覚・感情をあらわす語彙全体の歴史が見えてきます。それを「語彙史」と呼んでいます。つまり、語誌は、あくまで一つ一つの言葉の歴史、語彙史は、関連する語誌を総合化・体系化したもの。生命誌というのは語誌よりも語彙史に近い気がする。

中村

そうですね。一つ一つの生きものの歴史を見ますが、生きもの全体の歴史と関係を見たいの。山口さんの言葉の研究と気持ちは同じかもしれない。生命科学という分析、客観でなく生きものそのものを考えているとどうしても生命誌になるのです。

山口

とてもよく分かります。生命誌絵巻(註1)を見ていると私にはひとつひとつの生きものが言葉に見えてきます。

中村

言葉は生きものだとも言えますね。

山口

そう、生きものと同じように変わるし、時に勢力争いしたりもする。例えば、「達人」、「達者」という言葉がありますね。

中村

はい。

山口

今、「達者」は「元気でね」というような軽い意味ですが、昔は「その道に熟達している」という意味だった。鎌倉室町時代になると「達者」という言葉がちょっと店を拡張して「元気だよ」という意味ももった。手を広げ過ぎて、本来の「その道に熟達している」の領域が手薄になってしまった。そこをついて出てきたのが「達人」という言葉。この言葉は、漢文訓読の世界だけで細々と生きていた言葉だった。「達者」が意味拡張を図って本来の意味領域が手薄になったのを見て、すかさずとびだして、「達者」の言葉の本丸の意味領域を奪ってしまった。本丸を奪われた「達者」は、泣く泣く「元気でな」という意味で、細々と生きている。言葉も人間社会と同じように勢力争いをする。

中村

その時代にうまく合うものは残るし、そうでないものは滅びる。生きものもそうよ。

山口

言葉もそっくり、流行りの言葉も昔からあります。例えば「をとこする」、これは平安時代には結婚するという意味で「をとこする」という言い方がすごく流行っていました。でも、次の鎌倉時代にパタっと無くなった。流行語、一時の花だったのです。それから、すみっこのほうで細々と露命をつないでいる言葉もある。こういう変化を追究していくのが面白いのです。

(註1) 生命誌絵巻【せいめいしえまき】

一つ一つの生きものが持つ歴史と多様な生きものの関係を示す生命誌研究館のシンボル。
詳しくはこちら→



2.広い言葉の海を自由に泳ぐ

中村

お話を聞いていて生物学にある「環世界」を思い出しました。

山口

それは何ですか?

中村

例えば今、私たちがこのお部屋を見渡して「まあ、お花きれい」とか思うでしょう。でもここにハエが飛んできた時、ハエにとって花は食べる物でもないし自分が生きていくうえで意味のあるものではない、きれいかどうかは全く関係ないわけです。そのように同じ場所でも、生きものによって世界の意味が全然違う。だから、ハエにとっての世界を「ハエの環世界」と言うのです。

山口

なるほどね。ハエにとっては、見えないもの意味のないものもいっぱいあるわけね。

中村

そう考えた時に、言葉が人間にとってある意味、「環世界」ではないかと思えてきたのです。

山口

そうかもしれない。その人のもっている理解語彙、それから表現する時に使う語彙は違うから、「環世界」と言えると思います。言葉の海の中にいた時に、どれが見えるかというのは、一人一人にとっての「環世界」ですね。

中村

そう。食べ物が大好きな人は、食べ物に関する言葉が大事というように一人一人違うし、さらに言うと日本語の中にいる時と英語の中にいる時でも違いがあるでしょう。

山口

そういう発想したことがありませんでしたけど、そう思う。

中村

言葉ってなんだろうと思った時に、私たちは普段「コミュニケーションに使うものよ」とか、「考える時に大事よ」とか、自分を主体にして道具としての言葉を考えるけど、実は言葉のほうがこんな大きな世界を作っていて、私はその中にいるのかもしれないと考えたのです。

山口

面白い発想だと思います。そう考えると、世界がまた面白くなる。例えば、ある本で初めて出会った言葉を「ああ、こんなのあるじゃない、使ってみよう」とか「こんなきれいな物あるじゃない」というように言葉の海を泳いでいけばいいって考えると、とても楽しくなりますね。

中村

広い言葉の海があるのだから、変に自分の主体性にこだわらないで自由に眺めてみる。そして環世界を広げていくと考えると、言葉との関わりがもっと面白くなるのかなって。

山口

そうですね、創造性豊かになるしすごく楽しいと思います。ところで、先ほどここにハエが来たりとおっしゃったでしょう、それで変なこと思い出しちゃった。桂子先生のところへ蚊が来たらなんて鳴いていると思います?

中村

「プーン」かしら。

山口

そうですよね。ところが、清少納言は『枕草子』の「にくきもの」の章段で、夏いい気持ちになって寝ようとしていると、蚊が「カー」って自分のこと名乗って飛んでくると言っているの(笑)。さらに生意気なことに羽風まであるんだからと、彼女の観察眼は本当にすごいと思います。そして大事なことは、蚊の音を「プーン」ではなく当時の人は「カー」と聞いていたこと。

中村

だから蚊なのですか。

山口

そうです。

中村

そうやって音を言葉にする能力って、日本人は優れていませんか。

山口

そうですね、非常に感覚的です。だから、日本語には擬音語・擬態語が多い。

中村

そこからはあんまり抽象的な言葉は出て来そうもない。

山口

日本語の言葉の階層性をみていくと階層の下の方にある言葉、例えば「猿」とか「犬」とか「牛」などの具体を表す単語は全部やまと言葉です。ところが、そういう具体が集まって次の上位概念は何かと言ったら、中国から輸入した言葉「動物」でしょう。ここから漢語になるのです。

中村

なるほど。

山口

「すみれ」「たんぽぽ」、すべてやまと言葉。それらをまとめる上位概念は、「はな」で、まだやまと言葉です。ところが、さらにこの上位概念となると、「植物」。ここから漢語になるわけです。「植物」と「動物」合わせて「生物」。これも漢語です。日本人は非常に具体を捉えるのはうまいのですが、抽象的な思考はうまくない。だから、言葉もないから他の国から借りる。ただ、私はそこで悲観することはないと思います。抽象を捉えるのがうまい民族の作る文学はやっぱり抽象的で、具体を捉えるのがうまい民族の文学は、具体的で独特の価値を持つ。個性として捉えればいいのであって、悲観することなく生かしていけばいいと考えています。

3.感覚、音から生まれたやまと言葉

中村

私はやまと言葉が具体だというところにとても関心があります。学問として生きもののことを考える時に細胞、DNAという普遍的、抽象的なことを考えていくことはとても大事です。けれども、それで生きものが分かるかと言われたら、やっぱり「蚊とハエは違うでしょう」という具体をきちんと見ていかないと、本当にはわからないと思うのです。

山口

そうですね。

中村

生命科学は普遍を求めますから抽象性ですね。生命現象一般や、脳の構造一般について語るとかね。1匹のハエがどうなっているのか、人間一人一人はどうなのかと具体的な問いを立てません。抽象は大事で自然科学はそれをずっとやってきましたけど、そのうえで具体を見なければいけないということで生命誌を始めた。科学の中で考えている間は明治時代の翻訳語である漢語で足りていましたが、生命誌の話をしようと思った途端に、やまと言葉が使いたくなったのです。

山口

漢語はほとんど名詞形ですから、そこで完結して止まる。日本語で唯一流れを与えてくれるのは、やまと言葉の動詞です。ですから桂子先生がここに注目なさったのは、とてもいいことだと思っています。流れるイメージ、ずっと続くイメージをやまと言葉の動詞は出せる。きわめて具体的でもある。

中村

なるほど。じゃぁ私のカンは当っていたわけですね。

山口

はい。例えば、「吹く」というのはフーとやるから「吹く」、「吸う」も、スーとやるからです。

中村

やっぱり音なのね。

山口

それから、叩くは「タッタッ」と叩くときに出る音に動詞化する接尾語「く」を付けた。こうやって感覚がそのまま言葉になっているのです。ですから私は、非常に生きている言葉だと思っています。

中村

なるほど。さっきおっしゃった、「カー」とつながっていますね。

山口

そうです、鳴き声から名前になっている動物も多いのです。例えば、カラスは「カラ、カラ」という鳴き声に、鳥を示す接尾語「ス」をつけた。ウグイスは「ウーグヒ」と鳴いていたから。コオロギも鳴き声の「コーロ、コーロ」に虫を示す「ギ」をつけた。昔の人は鳥名や虫名が、そういう鳴き声から来ていることを知っていました。

中村

感覚で捉えた音を言葉にするのは、他の言葉に比べてやまと言葉に多いのですね。

山口

ほかの言語より多いです。まず印欧語はなし、フランス語では、オノマトペ(註2)は幼稚な言葉として排除された歴史があります。中国語も非常に少ない。だから、中国に行ってオノマトペの話をすると喜ばれます。

中村

どうして。

山口

「セミはなんて鳴く?」と聞くと、そんなこと考えたこともないと言うのです。ところが日本人はセミの種類ごとに聞き分けて、言葉を与える。アブラゼミは「ジージー」、ミンミンゼミは「ミーンミーン」、ツクツクホーシは「ホーシーツクツク、ホーシーツクツク」、ヒグラシは「カナカナ」だと言うと驚いて笑われる。中国の人はそんなものに耳澄ましてどうするんだという感覚で、セミの声を表す言葉なんてないのです。だから、「小さな生きもの一つ一つに命を感じ、彼らの鳴き声にさえ言葉を与える、それが日本人なの」と言うと納得してもらえるのですが。

中村

私は関西に行った時クマゼミの鳴き声に度肝を抜かれました。ものすごい大きな音で頭の上から「シャーシャー」と来るので。

山口

私はあの鳴き声好きです。『蜻蛉日記』(註3)では、夫がなかなか通ってこなくて主人公が悩んでいる時に、セミ(たぶん、クマゼミだと思うの)がいっぱい鳴く。庭を掃いていた老人がそれを聞いて、「良いぞ良いぞと鳴いているよ。虫だって時節を知っている。」と独り言を言うと、セミが「然(し)か然(し)か(そうだそうだ)」と一斉に鳴く。虫だって時節を知って訪れるのに、あの人は、私のところに通って来ない。作者はやるせない気持ちになる。セミの鳴き声を「良いぞ良いぞ」「然か然か」と聞きなしているのです。

中村

そう言えば、聞きなしということ、これも日本人お得意ですね。他は擬音語・擬態語が多いのはどこですか?

山口

韓国、東南アジアには意外とある。タイでは、犬を「ホンホン」と言います。暑くて弱っているから「ホンホン」って鳴いているのね。

中村

元気じゃない感じがよく出ている。擬音語・擬態語が多いという言語の特徴は、自然や気候と関係があるのかしら。割合、温暖湿潤で生きものには多様性があるというような場所。

山口

あんまり結びつけてみなかったけれど、そう言えるかもしれない。

中村

その土地がもつ風土と関係がありそうだなと思ったの。

山口

面白いですね。研究しますか。

中村

お手伝いします、生物学から見たことは言えますから。それから、これも素人の飛躍ですが男性、女性と並べると、女性のほうが具体的で男性のほうが抽象的だと思いませんか。

山口

そう思います。

中村

そうすると、紫式部や清少納言など、日本で素晴らしい女性文学者が伝統的に登場しているのは、やまと言葉の特徴とつながっていませんか。

山口

そうですね、やまと言葉は多義の言葉が多いので、含蓄のある文学作品ができるのです。男女で脳の構造が違う?

中村

地図を読むのが下手な女とか言われるけれど、脳の構造に男女で違いがあるのはわかってきています。女性の方が感覚的、具体的にものごとを捉える能力に長けているとすると平安文学は、その象徴かなと今思いついたのです。

山口

紫式部の優れているところは、女性であるという感性的な面と、人並み外れて抽象力ももっているのです。『源氏物語』の文章は、長くて分かりにくいと皆さんよくおっしゃるけれども、彼女の文を分析すると、長いけれど主語がどれで、述語がどれで、修飾語がどれかという構造がきちんとしています。普通長いと流れてしまい、主語がなんだったか忘れてお尻もいい加減に結ぶ。ところが彼女はいかに長かろうともきちんと終わる、すごい能力だと思います。

中村

すばらしい。

山口

彼女は女性の能力と男性が得意な抽象力の両方をもっていたから、長いストーリーを作っていくことができた。女性が活躍する時にやっぱり武器になるのは感覚、具体を捉える能力ですが、その生かし方として抽象力を合わせ持っていると卓越した物語の作り手になる。感覚的で具体的な能力を研ぎ澄ましてゆくと、清少納言みたいに日本初の随筆を生み出してゆく。

中村

私はこれまで日本人とか女性とかあまり言わないことにしてきましたが、最近、積極的に出してもよいかなと思い始めてるんです。どちらの特徴も、自然・いのちに近いことですから。

(註2) オノマトペ【onomatopée】

古代ギリシア語「ὀνοματοποιία(オノマトポイーア)」を由来とする。日本では擬音語・擬態語を包括的に言う時に使う。

(註3)『蜻蛉日記』【かげろうにっき】

平安時代中期成立。作者 藤原道綱の母(ふじわらみちつなのはは)。女流日記文学の先駆。



4.平安時代の「愛づる」の意味

山口

「蟲愛づる姫君」(註4)の「愛づる」を桂子先生は「物事の本質を客観的に見て生まれる愛の心」と解釈されていますが、これは物語の内容から帰納したものですよね。

中村

そう、内容からです。

山口

それから現代語で「月を愛づる」と言うと、月に関するさまざまな知識を応用しながら月を鑑賞するという感じがします。つまり、桂子先生の「愛づる」の解釈は「蟲愛づる姫君」の内容と現代的な語感の二つが重なって出てきたものに思われます。

中村

そうかもしれない。

山口

私はまず作品が書かれた当時の言葉の意味の解釈をします。すると、平安時代の「愛づる」は、決して本質を客観的には見ていないのです。

中村

どんな意味?

山口

むしろ感覚的にかわいがることを意味していました。当時の書物でそれぞれの用例を分析するとそれがわかりますが、複合語も見てみると面白い。「愛で痴る(めでしる)」という言葉がありますが、これは素晴らしいと感動してボーとなっていることです。他にも、大騒ぎで褒める意味の「愛で騒ぐ(めでさわぐ)」、褒めちぎっちゃう意味の「愛で惑う(めでまどう)」、世間こぞってもてはやす意味の「愛で揺する(めでゆする)」というような言葉もあります。どの複合語も全く客観的な態度ではない。つまり一瞬のうちに感性、直感で捉えて心引かれたり感動したりする、これが平安時代の「愛づる」の意味なのです。

中村

なるほど。すると、「蟲愛づる姫君」のお姫様は、「愛で痴る」「愛で騒ぐ」「愛で惑う」みたいな感じで、もう思いっきりすごいと思ったということですか。

山口

はい。私はこの姫君は最初から虫が好きなのだと思います。どうしてかと言うと毛虫を見て「心深きさましたる(註5)」なんて言っている。

中村

ありますね。私も気になったところです。

山口

虫を見て思慮深いなんて感じる人がいるかしら。美しいチョウの根源が毛虫だから、虫が好きなのではなく、見た途端に虫にひかれてしまった。理由は後付けだと思いますが。

中村

後付けか。

山口

好きになってから、どうしてこの男好きなのかしらと考えるのと同じ(笑)。話がうまい、お金があるからという理由は後から。まずひかれちゃったのよ! 彼女もまず虫に魅惑されてしまった。どうして好きなんだろうと後から考え「チョウの元じゃない、姿もいいのよ」と理由付けする。

中村

おっしゃる通り。だけど虫をよく観察して、彼女が言うところの「本地たづぬる(註6)」をしているから後付けができるのではないかしら。

山口

その言葉遣いも彼女の魅力の一つですよね。当時の女性は漢語を使わない。それなのに「本地」や「生前(註7)」と言ったりする。

中村

紫式部も漢語を知っていたでしょう。

山口

紫式部は利口ですから、自分が漢語を知っていることを隠している。

中村

なるほど、それに比べると姫君はちょっと幼いのね。

山口

幼いというか、いい悪いという既成概念にとらわれない。そこが魅力でもありますね。私は高校時代にこの物語に感動して「平安時代にこんな科学者の卵みたいな女性がいたのか」と思いました。好きな理由はいっぱいあるのですが、まずこの姫君の発言が大好きです。

中村

私も大好き。

山口

彼女が男の人に姿を見られてしまった時、みんなが大変だと騒ぐけど彼女は落ち着いて「誰がそんなに長く生きていい悪いと言うの」と発言している。この姫君の発言の真意は、「いい悪いなんて時代によって変わるのだから構わないじゃない」ということまで言っているんだと思うんですよ。

中村

それは、私もそう思う。眉をそらない、お歯黒しない、髪を耳にかけちゃうという彼女の行動もそこから出ている。当時の常識からは外れているけど、今考えたら歯は白い方がいいし、眉もそらなくていいでしょう。とても現代的なことを言っている。

山口

そうそう。この姫君のもう一つ感心するところは、ヘビが出てきた時に怖いくせに、自分が平素からこういうのはかわいがらなくちゃいけないと言っているから恐れながら触る。自分の言ったことに責任をもつ彼女の姿勢も、すごく好きなのです。

中村

時代に迎合しないで自分で考えてやりたいようにやる、そのかわり自分の判断に責任をもってものごとを行うところは私も好きなところです。受け止め方が重なっていますね。

(註4)「蟲愛づる姫君」【むしめづるひめぎみ】

平安時代末期成立。短編物語集『堤中納言物語』の一編で、毛虫を可愛がる姫君が主人公。

(註5)心深きさましたる【こころふかきさましたる】

思慮深い、考え深い様子。
 

(註6) 本地たづぬる【ほんぢたづぬる】

物の本質をつきとめようとすること。

(註7)生前【さうぜん】

前世または存命中を意味する語。



5.「蟲愛づる姫君」がひらいた物語のかたち

山口

「蟲愛づる姫君」のひらいた点というのは、こういう人物を造型したことですね。姫君のような人物は物語に登場したことがなかった。

中村

どうしてこんな物語があるのかしらと思いますよ。

山口

残存しているいかなる物語を見ても、「蟲愛づる姫君」に出てくる現代科学者みたいな女性が登場する物語はありません。それからもう一つ、それを短編で成し遂げているという点です。

中村

そういうかたちのものは、あとに続いていますか。

山口

短編はそのあと出てきますが、こういう人物造型の短編はこの作品が単独です。だから輝いているのだと思います。

中村

そうですね、独自だから面白い。これは創作だけれど何もないところから物語は生まれませんよね。

山口

モデルがいたと思います。

中村

そうですよね。平安時代にこのモデルがいたということ、そして物語として残っていることが世界のレベルで見てもすごいと思うのです。西洋で科学が誕生するよりも前ですから。

山口

作者は姫君の価値をちゃんと分かっていて、魅力的に書いている。嫌いだったら『源氏物語』に出てくる博士の娘(註8)のようにただ漢語を喋ってあとは常識的であるとか、近江の君(註9)のようにただペラペラ喋るというような愛せない書き方になってしまうはずなのです。

中村

そう。この姫君は「虫愛づる」だけれども、この姫君自身も愛されていると感じます。作者はどういう人だと考えられているのですか。

山口

作者不明です。エリートでないと書けないですから、貴族であることは確かです。

中村

私が不思議に思うのは、いわゆる日本文学の中ではこれがどう読まれてきたのかと調べたら、ろくな読み方がされていない。川端康成は萎黄病という病名までつけていますし。古典文学の研究者や文学者の中で私が共感できる読み方をして下さっているのは仲美さんだけです。

山口

私は愛していますからね。

中村

そうよねと言える読み方をしてくれている方、他にいらっしゃる?

山口

男性は男性の視点でこの姫君を眺めるからだと思いますよ。男性はだいたい女性の学者なんて嫌いですから。

中村

なるほど。学者っぽいから嫌なのね。

山口

伝統的な価値観で生きている男性はこの姫君の良さは分からない。大体この姫君は髪を耳にかけ、それでいいと言い張って主張を曲げない、男性から見たら色気がないし、川端康成でなくても好きではないと思いますよ。でも、この作者のように変わった男性もいますから。

中村

これは、やっぱり男性が書いたのね。

山口

そうだと思います。物語の中で姫君にヘビの玩具を送って姫君の反応を見ようとしたり、姿を見に家まで来て覗き見している右馬佐(うまのすけ)は作者の投影だと思います。

中村

ああ、なるほど。

山口

この人は姫君に好意と言ってもいいような感情を持っています。「なかなか姿かたちもいいではないか。惜しいなあ、あんな美人なのに。」と思っている。こういう女性を嫌いな人ばっかりじゃない、普通の価値観にとらわれていない男性は姫君みたいな女性を好きだと思いますよ。桂子先生、不満そうですね(笑)。

(註8)博士の娘【はかせのむすめ】

『源氏物語』第2帖 帚木(ははきぎ)の巻に登場する学者の娘。

(註9) 近江の君【おうみのきみ】

『源氏物語』第26帖 常夏の巻などに登場する女性。下賤な身分の出身なので、下品な振る舞いが多く、貴族の嘲笑の的。

6.文体を読み解く研究、ゲノムを読み解く研究

山口

私の「愛づる」もの、言っていい?

中村

はい、どうぞ。

山口

すごくうまい文章。

中村

ほお。

山口

うまい文章を見ると「どうしてこんな上手く書けるんだろう」と、その仕組みを探りたくなる。そこから私の文体研究が始まりました。

中村

例えば惚れ込んだ上手い文章って何ですか。

山口

そうですね、少し前は自分で自分の文章を駄文とくさす東海林さだおさんの文章が好きでした。ちょっとだけ砕けている文章が好きなのです。もちろん純文学の川端康成の美しい文章、石川淳のカチッとした『山月記』、太宰治のナルシスティックな文章とかいろいろ好きなのですが、やっぱりいい文章を見ると、これはどうやって成り立っているのかと知りたくなります。

ただ現代語の文体研究は波多野寛治(註10)さんや安本美典(註11)さんなどが既に解明していました。それで、誰もやっていないものをと考えて、私は古典の文体研究を始めたのです。古典には作者不明、成立年代不明、成立事情不明という作品がたくさんあるのですが、これらが文体からある程度分かってくるんですよ。

中村

それは面白い。

山口

例えば、作者不明の『浜松中納言物語』(註12)は『更級日記』(註13)の作者が書いたと言われていましたが、この二つの文体を比べると全然違う。だから、作者は別ですと言えるわけです。また、歌物語の『平中物語』(註14)は何か変なのです。その変さを探ってみると、普通の歌物語である『伊勢物語』(註15)や『大和物語』(註16)などは歌語りとして語られていたものを文字化して文学作品として成立させているのですが、『平中物語』はそれらをまねて最初から文字で書いた作品だろうという成立事情も文体から見えてきます。

文体の特性を明らかにするものさしとして擬音語・擬態語もかなり有力なんですね。擬音語・擬態語に注目しているうちに、その歴史にも興味を覚え、研究を並行させました。例えば私たちはいつも犬の鳴き声を「ワン」だと思っているのに、平安時代には「ビヨ」と鳴いていた。

中村

私たちの感覚とはだいぶ違いますね。

山口

平安時代末期の『大鏡』(註17)に出てくる犬の鳴き声なんですが、天国に行った犬の声だったので、普通とは違って「ビヨ」と鳴いているのかと思いました。でも、もしかしたら時代を遡ると日本人は違う聞き方をしていたのではいかと思い調べ始めました。擬音語・擬態語の歴史研究は誰もやっていなかったのですが、文化との密接な結びつきも見え、そこから面白いことがたくさん出てきました。例えば、犬の鳴き声は、昔は「ビヨ」と聞いていたけれど、「ワン」に変わったのは江戸時代の初め。なぜ変わったのか?それまで犬は放し飼いだから野生化していてすごく低い声で鳴くので「ビヨ」と写すのが自然。江戸時代から家犬化したので、高い声になっていき、「ワン」で写すのが適切になったのです。

中村

私たちはDNA(ゲノム)から生きものの歴史物語りを読み解く研究をしていますでしょう。これって文体研究かしれないと思うのです。以前は、生きものの分類は形の比較が主な方法でしたが、今はDNAを使うようになってきました。外から見えているのではない中にある法則性を探したいわけです。

物理学ならニュートンの法則でお月様の動きも、木から落ちるリンゴも、みんな同じ式で書ける、アインシュタインのE=mc2でエネルギーのことはみんな解ける。でも生きものを全部説明できる式ってないのです。そうはいっても、科学的にきちっと考えていくのに何をしたらいいかと考えた時に、今、お話しを聞いていて文体みたいなものを探す必要があるのではと思いました。

山口

なるほど。

中村

そこで、まず日本語の文体研究はどうやってやるのか教えて下さいな。

山口

例えば、非常に簡単なことを言うと、文の長さをまず見る。それから、色彩語がどのぐらい使われているか、擬音語・擬態語がどのくらい使われているか、そういう一種の計り(ものさし)を設定してから、それぞれの文章を分析していきます。そうすると、谷崎潤一郎は一文一文が長く、かつ動詞型の文章で、修飾語が多い。それに対して、志賀直哉は一文一文が短く、名詞型の文章を書き、修飾語は極めて少ないというようなことが言えます。生物学もそれができるかもしれないですね。

中村

なるほど。計りを探さなきゃいけないのね。

山口

そう。その計りがいいほど物事がよくわかる。比喩表現は、その人の発想をすごく表しますから、古典で絶対この人はこういう例えは使わないという表現が出てくると「作家が違う」と言える。逆に、きらきら光るものを見た時に「鏡をかけたようだ」という変わった比喩がA作品とB作品に出てきたとする。すると、この二作品の作者は同一である可能性が高くなる。

中村

まずは、いい計りを見つけなければいけない。そこですね。

(註10)波多野完治【はたの・かんじ】

[1905 - 2001]東京生まれ。心理学者、文学博士。お茶の水女子大学名誉教授。文章心理学、児童心理学、生涯教育などを幅広く研究。著書に『児童心性論』、『文章心理学大系』ほか。

(註11)安本美典【やすもと・びてん】

[1934 - ] 満州国奉天省鞍山市に生まれ。心理学者、日本史研究家。文章心理学、計量比較言語学、日本古代史の研究を行う。著書に『言語の科学 日本語の起源をたずねる』、『新説!日本人と日本語の起源』ほか。
 

(註12) 『浜松中納言物語』【はままつちゅうなごんものがたり】

平安時代末期成立。作者 未詳。夢と転生を織り込んで複雑な筋を展開している。

(註13)『更級日記』【さらしなにっき】

平安時代中期成立。作者 菅原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)。物語の世界にあこがれる10代から、夫と死別した晩年までを綴った回想記。
 

(註14)『平中物語』【へいちゅうものがたり】

平安時代中期成立。作者 未詳。平中と呼ばれた平貞文(たいらのさだふん)を主人公とする恋愛説話39段から成る。
 

(註15)『伊勢物語』【いせものがたり】

平安時代初期成立。作者 未詳。歌を中心とする125の小話は、在原業平(ありわらのなりひら)とみられる主人公の一代記のようにまとめられている。

(註16)『大和物語』【やまとものがたり】

平安時代中期成立。作者 未詳。和歌を主とし、恋愛・伝説などを主題とする173の説話から成る。
 

(註17)『大鏡』【おほかがみ】

平安時代末期成立。作者 未詳。第55代 文徳(もんとく)天皇から第58第 後一条(ごいちじょう)天皇までの時代の歴史物語で、藤原道長がいかに栄華を極めたかが中心に語られている。



7. 繋げてひらく

山口

生物を分類する時は。何を基準にして分けているのですか?

中村

今までは形ですね。同じ種だということは子どもができるかできないかで決めるので、生殖器の違いはとても重要です。

山口

生殖器の形を見るのですか?

中村

そうです。私たちはDNAを使ってオサムシを分類しましたが、形からの分類が見事にできていたのでそれを生かしてよい研究ができました。

山口

面白いですね。

中村

今はDNAが似ているかどうかで比べるというのが研究の流れとなってきましたけれど。

山口

そうすると形との対応関係はどうなりますか?

中村

そんなに違いません。同じ仲間だと考えられていた種同士が実はちょっと遠い関係だったとか、そういう小さな違いはたくさんありますが大ざっぱには、形での分類とそんなには違わない。同じような仲間だったら、形が似ているのは当たり前なので。そうやってDNAで比べていく時に、出てきたデータを式であらわせるかと言ったらそれは無理。仲美さんが文体研究でやったように、鍵になるものを探していかないといけない。

山口

 

なるほど。私の場合は文体を読み解く鍵が擬音語・擬態語や比喩表現だった。

中村

そういうものを探さなければいけないのです。

山口

DNAの他に何か探さないといけないということ?

中村

DNAの中に探すのです。DNA解析をするとそれぞれの生きものがもつ配列が文章のように出てくるので、それを比較するわけ。仲美さんの色彩語やオノマトペに相当する切り口が分からないので。

山口

そういうことなのね、すごく面白い。文体研究も、この人とこの人の書いた文章は違う、では違いはどこにあるのか、なぜ違うのかという問いから生じたわけですから同じです。そして、文章も一律化できない。

中村

そうなの。生きものも一律化できないから、式では表せない。だから何か探さなきゃいけない。いま文体っていう言葉を聞いて、それぞれの生きもののDNAがもつ文体を比べてみるというようなことができるかもと思ついたのですが。

山口

なるほどね。

中村

何を鍵にすればいいのかはまだわからない。DNAデータは大量に出てくる時代になったので、それらを並べてこれから考えていかなければいけないのですが、意識としては文体研究に学ぶことができると思います。

山口

桂子先生の頭の中には、生命誌っていう巨大な吸着盤があって、あらゆるものがその吸着盤に張り付いていくのね。

中村

まさにそう。何を聞いても生命誌になるの。

山口

すごくよくわかります。私、論文を書いている時そうなっちゃうの。それが、求心力なのですよね。

中村

そう、そしてそれを取り込むだけじゃなく、ひらいて繋いでいく。ひらいていかないと物事は動かないので。

山口

桂子先生の場合、ひらいてくのが一般に向けてだと感じます。そこが、素晴らしい。

中村

一般というよりは、私は日常性を大事にしています。専門だからここだけとは思わないで言葉もやさしい言葉しか使いません。書く時にも話す時も、特別な漢語をほとんど使わない。それは、正直いって漢語知らないからですけど。

山口

知らないのではなく、桂子先生の頭の中にはいっぱい漢語が入っていると思う。ところが、「これ使いたくない」って排除しているのだと思いますよ。

中村

そうね、さっきの環世界でいえば、やまと言葉の海の中を泳いでいる気がする。科学の場合は学問用語の漢語は明治に翻訳語としてできたものですから。そうじゃない言葉を使っていると、自ずとやまと言葉になってしまう。

山口

私は明治期の翻訳語研究をやったことがあるので、如何に漢語で翻訳していったかはよくわかります。なんでこんな語までちゃんと漢語翻訳できたのかと、逆に偉いと思っています。

中村

たしかに、それがあるから日本人はみんな日本語で勉強ができたわけですしね。今みたいにカタカナにしてすまさなかった。漢字にしてあれば、日本語がわかる人は理解できるわけで。だから、漢語に翻訳したのはとてもすごいことだと私も思っているのですが、それを使っていると生きもののことを語るのは難しくなるのです。

山口

語れないですか?

中村

日常的な感覚で語るのは難しくなります。

山口

そうですね、花びらのことを花弁っていったら嫌ですものね。

中村

そう、そうなの。

山口

雄しべのことを雄蕊といったら、全然違う。

中村

そうそう、しかしね。そういう話し方をなさる専門家もいるの。

山口

私もそういう人は苦手です。私はあらゆることは、人に通じなくちゃいけないと思っています。どんなことでも、人に通じるように喋る、話す、書く、という努力をすべきだと。

中村

それはとても大事ですよね。学問分野の中でとどまるのではなく、日常にひらいていく知をつくりたいと生命誌を20年続けてきましたが、挑戦に終わりはありません。今日はいろいろ教えていただいてありがとうございました。また、教えて下さい。

山口先生ご自宅の書庫にて。

写真:大西成明

対談を終えて

中村桂子

ゲノム解読に言葉の解読を参考にしたいと読んだ言語学の本はとても難しい。その中で山口さんの日本語の歴史や古典を語る本は、学問の楽しさを伝え、面白いのです。その中で、「蟲愛づる姫君」を「物の本質をとらえており、今生きていたら生物学者になったに違いない」と言われているのを見て是非対談をと思った次第です。初対面なのに旧知の仲のように話がはずみ、楽しく、また学ぶところ大でした。
 

山口仲美

生命誌研究館のバックボーンになっている平安時代の物語「蟲愛づる姫君」の話で盛り上がってしまいました。現代に彼女が生きていれば、一流の生物学者になったと思われるような姫君です。桂子先生は「なぜ、こんなに素敵なお姫様なのに、文学者たちはよく言わないんでしょうか? 姫君に萎黄病という病名までくっつけたりして」と、心外でならないご様子。「現代だって、女性の研究者は、色気はないし、理屈っぽいし、主張を曲げないし。男性一般からは好かれない存在なんで、彼女が変人扱いされても仕方がない気もしますが」と私。桂子先生の不満そうなお顔が忘れられません。でも、「蟲愛づる姫君」の魅力を理解できる男性は稀だけれど、必ずいる。ここが救いです。さて、対談の成り行きは? 長年の憧れの桂子先生との対談で、私は前の日から実は一人で盛り上がっていたのです!
 

山口仲美(やまぐち・なかみ)

1943年静岡県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文学博士。現在、明治大学 国際日本学部教授。専門は日本語史とくに擬音語・擬態語の歴史。著書に『犬は「びよ」と鳴いていた』、『日本語の歴史』、『ちんちん千鳥のなく声は』、『日本語の古典』ほか多数。

 

季刊「生命誌」をもっとみる

映像で楽しむ