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研究館より

中村桂子のちょっと一言

2021.04.01

私―自然―あなたという自然観

上の方では早咲きのサクラ(サクランボの樹)やモクレン、地面ではクリスマスローズ、ムスカリ、ガーベラ・・・次々と花が咲きはじめ、美しさとは程遠いことばかりしている人間を置き去りにして行こうとしています。昨年から続いていることですが、どの花も特段にきれいで、置き去り以上のメッセージを出しています。

そこで、今年からのテーマである「私たち」の一つとして、自然との関りを取り上げます。国文学者伊東益先生のお考えから学んだことです。万葉集以来の和歌を見ていくと、「私たち日本人は自然を眺める時、自然を大事と思っている“あなた”との関係にとって不可欠なものとして見ている」というのが、伊藤先生の指摘です。つまり、「私―自然―あなた」(先生の文では、我―自然-汝となっています)というように自然はいつも私とあなたを結ぶものとして存在しているのです。そこで、あなたがいない時には自然が無意味になってしまいます。
 
妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも
(四四九、大伴旅人)

一緒にいた時は素晴らしかった崎も一人で接しなければならない今は、私にとって虚しいものでしかありませんと旅人は言います。自然が無意味になったのです。

これを伊藤先生は、「自己存在の不確実性の意識によって“ゆらぐ我”となり、そうなると自然は”我”を拒絶している存在となる。ここで、“我”を疎外してある自然という考え方が生まれる」と説明して下さいます。
 
うらうらに照れる春日にひばり上り心悲しもひとりし思えば
 (四二九二 大伴家持)

我と汝の関係性のもとに自然に親しむのが普通である家持が、汝を欠くが故に不安になり自然を外在化する他ないという状態になっているのだと、先生は説明されます。

自然を我と汝のかけがえのない関係を成り立たせる地平として、我の方から積極的に意味づけていく。これが万葉人の自然観であり、そこには自然の主体化への意欲があります。この主体化への意欲は自然を人間が統制・統御しようとする意欲と同じではありません。自然に主体的に関わりながら、現代の自然征服型の自然観とは違う自然観です。

つまり、ここでの人間と自然との関係は、自然との一体化でありながら、自然の懐に抱かれるという受動的なものではなく、私とあなたという人間関係の中に自然を呼びこんだものになっているのです。

私を考える時、常に「私たち」を意識しようと思っている私(これは中村桂子という私)には、この指摘がすとんと腑に落ちます。自然は常に「私とあなたを結ぶ自然」として存在するという捉え方で自然を見ていくことで、日常の自然とのつき合い方の重要性が浮び上がります。これなしに、突如地球環境問題を考えましょうと言われるので「他人事」と受け止めてしまうのではないでしょうか。これからの社会を考えるうえで大事な切り口です。これからの生命誌の基本の一つにします。


附記:3月半ばに書いていた時は、最初に書いた状況だったのですが、その後突如ソメイヨシノが咲き始め、みんな大急ぎでお花見に出かけるという異変が起きました。落ち着きのない世の中ですね。

中村桂子 (名誉館長)

名誉館長よりご挨拶