ラボ日記
2025.09.02
猫のリレー:イグノーベル賞と液体の科学
1. バトンは猫から猫へ
前回の走者から手渡されたバトンは、ふわふわで、温かくて、どうやら猫の形をしているらしい。
するりと手からこぼれ落ちそうになるそれを、慌てて胸に抱きしめる。ゴロゴロと、喉を鳴らす音が聞こえた気がした。よし、と覚悟を決める。このまま走り出そう。これは「猫のリレー」だ。
谷川俊太郎は「朝のリレー」で詠った。
カムチャツカの若者が、きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は、朝もやの中でバスを待っている、と。
ならば、こう続けよう。
地球のどこかの科学者が、宇宙の謎に頭を悩ませているとき
日本のとある研究室で、僕は猫について真剣に、大真面目に考えている。
これから始まるのは、そんな思考のリレー。
一見すると何の役にも立たないかもしれない。けれど、科学という名の壮大な遊び場で見つけた、最高に面白いユーモアの話。
さあ、風を切って走り出そう。僕の猫が、窓辺でこちらを見ている。
2. 遠い記憶の呼び声:バウリンガルと21世紀の猫
猫について考える、と言うと、ふと思い出す風景がある。
世紀が始まったばかりの頃、僕らを熱狂させた小さな翻訳機。
そう、「バウリンガル」だ。
覚えておいでだろうか。犬の鳴き声を感情に翻訳するという、あの夢のようなガジェットを。
開発元のタカラ(現タカラトミー)は、この功績により2002年、イグノーベル平和賞を授与された。「イヌとヒトの平和と調和を促進した」というのが、その最高に愉快な受賞理由だ。
もちろん、猫派の諸氏のために『ミャウリンガル』という姉妹製品もあった。
当時の技術で懸命に動物の心を読み解こうとした、あの真剣な眼差し。今思えば微笑ましいが、それは紛れもなく、僕らが夢見た未来の一つの形だった。
では、もし。
もし、今の僕らが、あの夢をもう一度見るとしたら?
手のひらの上で大規模言語モデルが動く。
安価で高性能なセンサーが、あらゆる生体情報を読み取る。
クラウドの向こうには、世界中の猫のデータが集積されている。
これら全てを結集した「シン・ミャウリンガル」が生まれたなら。
きっと僕らは、気ままなアクビの裏に隠された猫の退屈の深さを数値化し、「ニャーン」という一声に込められた量子力学的な意味合いについて議論するのかもしれない。
技術はこれほど発展したというのに。
僕らはまだ、足元にすり寄るこの小さな生き物の考えていることを、どうしようもなく知りたいのだから。
3. 極上のユーモアへの招待状:イグノーベル賞という名の遊び場
さて、そのイグノーベル賞だが。
不名誉を意味する "ignoble(イグノーブル)" に引っ掛けたその名は、最高の皮肉と愛に満ちている。
彼らが掲げる理念はただ一つ。
「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」。
これは単なるおふざけではない。むしろ、極上のユーモアがそうであるように、本質的な知性と批評精神を内に秘めているのだ。
白状しよう。
一人の科学者として、僕はノーベル賞にはあまり興味がない。
けれど、イグノーベル賞なら、喉から手が出るほど欲しい。
なぜなら、もし受賞できたなら。
それは「その年に、世界で一番の知的で面白いユーモアを考えた科学者」という、最高の称号に他ならないからだ。
スポーツの珍プレー集を思い出してほしい。
なぜあれほど面白いのか? それは、選手たちが大真面目に、必死にプレーしているからだ。狙ってできる笑いじゃない。真剣さが生んだ、奇跡的な笑いだ。
科学もまた、同じ。
僕らは大真面目に、世界の真理を探求している。その真剣な道のりの途中で、思わず誰かに話したくなるような、愛すべき「珍プレー」を発見することがある。
イグノーベル賞は、そんな人間味あふれる探求心と、そこから生まれるおかしみに光を当てる、年に一度の最高の舞台なのだ。
4. 本日の主役:猫は液体である (On the Rheology of Cats)
では、僕が愛してやまない「科学の珍プレー」を、満を持して紹介しよう。
2017年のイグノーベル物理学賞。研究タイトルは "On the Rheology of Cats"。
そう、「猫の流動性(レオロジー)について」。
この論文は、様々な状況証拠と物理学の理論を駆使して、一つの結論を導き出した。
それは、「猫は液体であり、かつ固体でもある」というものだ。
「何を言っているんだ」という声が聞こえてくる。もちろん、猫をコップに注げるわけじゃない。話はもう少し、時間とスケールの問題なのだ。
ここで、巨大な氷河を考えてみてほしい。
僕らの短い一生において、それは圧倒的な氷の塊、つまり「固体」だ。
しかし、地質学的な時間、数百年、数千年というスケールで見ればどうだろう。氷河は重力に従い、ゆっくりと、しかし確実に谷を流れ下っていく。
このとき、氷河は粘性の高い「液体(流体)」として振る舞っている。
物質が固体か液体か。その境界は、僕らが「どれくらいの時間で見るか」によって、いとも簡単に揺らいでしまう。
猫も、同じなのだ。
一瞬の猫パンチを繰り出すとき、猫は弾性のある「固体」だ。
しかし、自分より明らかに小さいガラス瓶や箱に入り込もうとするとき、彼らは時間をかけて、ゆっくりと、その身体を空間に合わせて変形させていく。あらゆる隙間を満たしていく。
そう、まるで粘り気のある液体のように。

この視点の転換こそ、科学がもたらす最高のユーモアだ。
常識という名の固い地面に、知性という名の亀裂が走り、そこから全く新しい風景が見えてくる。その瞬間が、たまらなく面白い。
5. 論文の果てに猫カフェを見た
そして、この論文が見せてくれる風景は、さらに予想の斜め上をいく。
物語は、論文の最終盤。
流体力学の難解な数式と真面目な考察が続いたその果てに、著者は突如、極東の島国で見られるあるユニークな空間について言及するのだ。
そう、日本の「猫カフェ」である。
なぜ物理学の論文で、猫カフェ?
僕らの常識が再び揺らさぶられる。著者は至って真面目に、こう考察する。
「近年の研究で、猫は人間のストレスを吸収し、緩和する効果を持つ物質であることが示されている。したがって、猫カフェとは『人間のストレス緩和を測定するための、猫という名の測定器(プローブ)を配置した、定常状態の実験施設』として利用できるかもしれない」と。
……もう、お解りだろうか。
これ以上ないほど知的で、馬鹿馬鹿しく、そして猫への愛に満ちた考察ではないか。
彼は大真面目に、猫カフェでくつろぐ人々を、壮大な物理学の実験に参加する被験者に見立ててみせたのだ。
そして、サプライズはまだ終わらない。
学術論文には通常、実験データなどをまとめた「サプリメンタリーデータ(補足資料)」が付される。
この論文のサプリメンタリーデータが何だったか、想像がつくだろうか。
それは、狭いシンクにみっちりと収まる猫。
金魚鉢にぴったりフィットする猫。
小さな段ボール箱から液体のように溢れる猫。
そう、理論を裏付ける証拠写真として、ありとあらゆる場所に液体のように順応する、世界中の猫たちの写真が延々と続くのだ。
これこそが、科学における最高のユーモア。
知的好奇心という名の、どこまでも自由な遊び心の発露なのである。
6. 我が家の猫もまた、液体である
科学とは、決して無味乾燥な数字や数式の集まりではない。
それは、この世界を昨日とは全く違う、新しい視点で見るための、最高の「遊び道具」なのだと僕は思う。
猫を液体と見なすこと。
猫カフェを物理学の実験施設と呼ぶこと。
そこに直接的な実用性があるかと問われれば、回答は「ない」であろう。
しかし、僕らの心を豊かにし、世界がほんの少しだけ面白く見えるようになるのなら。
それ以上に価値のあることがあるだろうか。
さて、ずいぶんと遠くまで走ってきてしまったようだ。
この原稿を書いている僕の足元でも、一匹の猫が、どう考えても快適とは思えない Amazon の箱にフィットしようと挑戦している。
通称「ニャマゾン」だ。

彼が固体なのか液体なのか、僕にはもう解らない。
ただ一つ確かなのは、この不可解で、どうしようもなく愛おしい存在が、僕の世界を面白くしてくれているということだ。
さあ、この猫という名の不思議なバトン。
次の走者は、いったいどこへ、僕らを連れて行ってくれるのだろう。
謝辞: 我が家の猫へ、あるいは仕事の進行を妨げる愛すべき存在への感謝
さて、ここに一つの告白をしよう。 この原稿の執筆時間は、当初の予定を3時間ほど超過している。
その原因は、決して僕の筆が遅いからではない。 ましてや、難解なテーマに頭を悩ませていたわけでもないのだ。
犯人は、すぐそこにいる。
僕の左腕を枕代わりにし、満足げな笑みを浮かべるこの小さな黒い毛玉。 キーボードを打つ右手の動きに合わせ、尻尾をぱたぱたと揺らす、そのリズミカルな妨害。
モニターの向こうにある世界の真理より、この温かな重みの方が、よほど僕の関心を引いてしまうのだから、全く手に負えない。
「締め切り」という名の冷徹な現実から僕を守る、ふわふわの防波堤。 君がいるから、まあ、もう少しだけ休憩しよう、と思ってしまう。
この原稿が完成しないのは、全部君のせいだ。
そして、この世界がほんの少しだけ幸せなのも、きっと、君のおかげなのだろう。
尾崎 克久 (室長)
所属: 昆虫食性進化研究室
アゲハチョウを研究材料として、様々な生き物がどのように関わり合いながら「生きている」のか、分子の言葉で理解しようとしています。