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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【「思想」は「思想する」だったとは・・・】

2007.5.1 

中村桂子館長
 枕元にあるラジオにスイッチが入り、天気予報が聞こえてくるところから朝が始まります。5時55分です。まだ充分眼覚めていない頭に、今日は一日雨ですとか、最低気温は10度、最高気温は18度などというアナウンサーの声が入りこんできます。この温度だとそろそろ綿の上衣かな、でも雨というから肌寒いかもと考えているうちに眼が覚めます。ニュースも朝の支度をしながら聞くのでテレビよりラジオ。夕飯の支度をする時、部屋の片付けをする時、ながら族に向くのはラジオなのです。その中で、なかなか面白いのが高校講座です。国語、数学、・・・とある中で、高校の時には習わなかった倫理という時間が教えられるところが多いのです。なかでも竹内整一先生(東大教授)の「日本人の考え方」についてのお話が好きで、ついに先生の著書『「おのずから」と「みずから」−日本思想の基層』を買ってしまいました。講座ですからくり返しなので、何年もすると、あっこれ聞いたなというものが多くなるのですが、最近初めて知ってびっくりしたことがあります。
 「思想」とは本来“動詞”である。
 びっくりしたという意味わかっていただけますよね。動詞で考えよう、動詞で考えようと自分で思いついたことと思いこんであちこちで言っていたのですが、本来思想は“動詞”であるというのですから。
 明治の初めころ、「思想」は「思想する」という動詞の形でしばしば使われていた。・・・「思想」とは、本来こうした「思想する」営みにおいてこそ、「思想」たりうるのである。ところが、西洋の思想文化を、その制度や技術を、全力をあげて輸入し、一日も早く近代国家を形成しようと急ぐところで、「思想」は「思想する」ことを悠長な営みとして切り捨てたのである。その結果、「思想」は日常からますます離れた。
 とにかく急ぎすぎている、日常から離れている、考えることを止めている・・・生きもの研究の中でそれを強く感じて、そうだ「生命」と言わずに「生きている」といえば、いろいろなことが具体的に浮かんでくると思いついたのですが、それは明治の初めに戻ってやり直すということだったというのだから驚きです。御存知でしたか。「思想」は「思想する」だったということ。素直にものを見つめ、考えていると、本来に戻るということですね。愚直にこれで行くことにします。
 高校での「倫理」に生徒たちが感じている、どこかよそよそしいうさんくささはここにも一因があるだろうと竹内先生はおっしゃっています。私もそう思います。高校生だけでなく世の中の人皆がそうなっている。急ぎ過ぎなんですよ。それでうまく行っていない。生命科学はその典型です。急がばまわれと言うのに。


 【中村桂子】


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