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進化研究を覗く

顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。

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チョムスキーから始めよう

2017年6月15日


図1 出典:wikipedia

言語学と生物学を結びつけたチョムスキー

写真は米国MITで50年以上にわたって言語学研究を続けているノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)だ。本や論文は読んだことがなくても、名前を知らない人はほとんどいないと思う。

ギリシャ時代から現代まで、言語について多くが語られてきたが、近代言語学の父と呼ばれるソシュールも、一つの言語(例えばフランス語)の歴史や、言語の構造比較に基づいて、言語と文明・社会との関わりを考える研究が中心で(と言っても私は岩波書店一般言語学講義しか読んではいないが)、言語がどのように生まれてきたか、私たちの脳の持っている言語能力とはなにかについて述べることはなかった。

これに対し、チョムスキーは、まだ脳科学がほとんど発展していなかった1950-1970年、言語、特に単語を集めて文にする統語論について多くの著作を表し、統語過程の背景には、すべての言語に共通で普遍的な「生成文法」と、学習によって身につける「個別文法」が存在することを提唱した。そして、この生成文法は生まれつき備わっていると考えた。それまで、言語とは一人一人の個人が白紙の状態から学習するものと考えていた当時の言語学にとっては、この考えは大きなインパクトがあったはずだ。

1965年に書かれた「統辞理論の諸相」(福井直樹、辻子保子訳、岩波文庫)のなかで、生成文法について彼は次のように語っている。

「生成文法とは端的に言えば、明示的で明確に定義された方法を持って文に構造記述を付与する規則のシステムに他ならない。ある言語の話者が、誰でもその言語についての自分の知識を表している生成文法を身につけ、内在化していることは明らかである。だからと言って、話者がその文法の規則がどのようなものなのか気づいているとか、気づくことができるようになるとか、あるいは話者が自分の言語についての直接的知識を言語化したものが必ず正しいとか、そういったことにはならない」——すなわち、わたしたちが意識しないで、一定のレベルの意味のある言葉を話すことができるのは、私たちが生来身につけている生成文法による。

「生成文法は、話者が自分の言語知識について語るかもしれないことではなく、話者が実際に知っていることを明示的に述べようとするのである。」——すなわち、生成文法は私たちの頭の中で物語(文章)が形成されるプロセスに関わる。

「生成文法とは話者のモデルでも聴者のモデルでもないと念を押すことは、無意味ではないかもしれない」——すなわち、話者も聴者も同じ生成文法を共有している。

そしてこの生成文法の背景にある、母国語の種類にかかわらず人間の脳には全てに備わっている統語能力を普遍文法と呼んだ。今風に言えば、進化過程で変化してきた人間共通の脳神経回路構造の中には、外界、内界から得た表象をもとに物語を形成するための十分条件が備わっており、この人類共通の言語回路が、外からの学習によって書き換えられると、言語別、個別の文法が形成されるとする考えだ。

現在の脳科学に十分親しんだ読者の皆さんは、一定の統語能力が発生直後の脳回路に備わっていると考えることにはそれほど違和感はないはずだ。

もちろん、チョムスキーがこの革新的な説について述べた1950-1970年には、脳についての理解は限られていた。このため、個体の多様性が自然に発生することが自然の原理であることを説得するため、ダーウィンが家鳩などの多様化の例を執拗に提示したのと同じように、チョムスキーも生成文法や、普遍文法を、文例の分析からわかる現象論的には自明のこととして議論を展開した。しかし例えばガゼルの子供が生まれた時から歩けることは直接観察できるが、子供が私たちが十分理解できる言葉を話すようになるのに3年近くかかることを考えると、彼の説を脳科学的に検証するのは難しい。事実、チョムスキーがこの考えを最初に述べてからすでに50年が経っているが、生成文法に対応する脳神経回路を特定するような研究はまだないと言っていいだろう。

ただはっきりしているのは、チョムスキー以後、言語や言語能力の発生が重要な課題として多くの研究者に認められ、賛成・反対を問わず、生成文法や、普遍文法は必ず言語の発生に関する議論の中心になって来たことだ。この現象は一部の人には、チョムスキーがこの分野に神のごとく君臨しているように見えるらしい。普遍文法が神話になってしまった現状を憂いたトマセロ(サルを使って言語や社会性について優れた研究を展開している)は「Universal grammar is dead」というコメンタリーで、普遍文法から言語を考えるのではなく、バイアスなしに脳科学から言語の普遍性と多様性を考えることの重要性を述べている。私も全く同感で、脳科学的にも言語学的にも普遍文法という概念にまだエビデンスに基づいた内容が伴ったとは言い難い。

チョムスキーらの最近の論文

しかし、トマセロがこの批判的コメンタリーを書いた2009年から比べると、チョムスキー自身も変化しているのは当然だ。彼の今を知るには、最近書かれた論文や総説を読むのが一番だ。そう思いついて、この原稿を書くため彼が最近書いた総説を探してみた。彼は1928年生まれで、現在89歳に近いと思うが、驚くことに今年に入ってすでに単独、あるいは共著で論文を3編発表していることがわかった。そこで彼が現在生成文法についてどう考えているのか、これらの総説に探ってみようと考えた。これらの総説論文から、チョムスキーの考えの論点を整理し、今回言語の発生を考える時の課題をリストすることが今回の目的だ。

図2 今回紹介する2012年に書かれた総説

幾つか論文をダウンロードして読んだ中で、共著だが2012年にTrends in Cogitive Scienceに発表された論文は、図も多く、また最初から言語とチョムスキーの統語理論を脳科学的に考えようとしているのでこの論文を中心に紹介することにした(図2)。この論文は、普遍文法の脳科学を目指して書かれているように思える。この論文を紹介しながら、必要に応じて彼が今年単名で発表した論文(Neuroscience and biobehavioral reviewsに発表した論文)にも言及する予定だ。

図3 総説の図1を改変して再掲している。内容は本文参照。

脳に普遍文法を探る

チョムスキーの最初の頃の著作と今回読んだ総説を比べると、50年経った今、彼が自分の理論を脳科学として位置付け直そうとしているのがよくわかる。総説に掲載された図を改変した図3は、脳内の言語回路と、他の機能を担う回路との関係を描いたものだが、言語回路が結合する最も重要な脳回路は、外界との関係に関わる感覚運動回路と、概念や意図の形成に関わる内的な高次機能回路で、言語回路とそれぞれとの接点を、1)感覚〜運動接合部、と2)概念〜意図接合部と呼んでいる。すなわち言語活動とは、脳内の言語回路が、外界との相互作用を行う感覚・運動系、および脳内で概念、意図、意味などを発生させる高次脳回路を媒介することで成立すると考えている。

例えば、何かを考えてそれを言葉に出す時、内的高次回路、言語回路、感覚運動回路という順番でプロセスが進み、意味のある文章が発話される。あるいは、友達に出会って話をする時などは、友達を認識する感覚運動回路からスタートするが、あとは三つの回路を行ったり来たりすることになる。

この脳内言語活動において普遍文法に相当するのは、進化と発生過程で生まれた、人間共通の基礎言語回路になるが、現段階でこれが言語に特化した回路だと考える必要はないだろう。要するに、言語を可能にする言語能力が新しい脳回路形成過程で人間のみに現れたと考えればいいと思う。

言語学の課題は、この言語回路で行われる過程の解明だが、最近の総説では脳内に散在する様々な表象を「merge」(混合)して、新しい表象(文章)を生み出すのが言語回路の役割だとしている。残念ながらこのmergeを行う脳内での計算が、ランダムではなく、意味を生み出す法則についてはこの総説でもわからないままだ。文章には単語が順序だって並んでいることから、単語を並べることがこの回路の仕事と考えてしまうが、決して単語を並べることがMergeではないことを強調している。すなわち、言語回路は表象を順番に並べるのではなく、mergeによって塊(句)にまとめることが主要な役割だと考えている。確かに文章が発話されるとき、単語が順序立てて連なっているが、頭の中の塊をそのまま同時に伝えることができないという物理的制限のせいでこうせざるを得ないだけのことだ。また、各言語で個別の文法が発展しているのは、おそらく様々な文化的背景のなかでコミュニケーションをより正確に進めることが要求されるからだと言える。

このmergeについて、2017年のチョムスキーの総説では、言語も脳のコンピューティングであることを強調し、脳の中ではあらゆる表象が脳回路の活動であることを強調している。これは私が前回言語発生研究の難しさとして述べた、神経系ではあらゆるものが電気回路にシンボル化されているということと同じことだ。即ち "eat" "apple"のようにeatとappleがmergeしてeat appleという新しい表象が生まれるとき、eatもappleも神経回路にシンボル化して存在している点だ。チョムスキーは1990以降、この過程で働く法則としてminimalist programを提唱し、この総説でもStrong minimalist thesisについて述べているが、統語の法則がニュートン力学と同じように法則として存在するとする考え方で、脳科学的に説明することが難しい概念だと思う。この法則性は別として、単語が脳回路でどのように表象されているかという点は、言語を考える上で極めて重要な課題で、のちに詳しく議論したいと考えている。

以上まとめると、普遍文法とは頭の中に異なる表象を集めて新しい意味をもつ表象の塊を作るために生まれてきた人間特有の能力で、この能力は脳内で物語を作るために進化したもので、決してコミュニケーションの必要性で進化したとは考えていない。ただこの能力は、2次的にコミュニケーションにも使われるようになる。この結果、学習が必要な個別文法がコミニュケーション言語には必要になった。このように言語能力が、コミュニケーションのために進化したと考えないのがチョムスキーの普遍文法の一つの柱だが、これについても多くの異論があり、特に、言語の原子とも言える単語がどのように成立するのか考えるためには、コミュニケーションの問題を抜きにしては語れない。

すでに述べたが、チョムスキーの総説では、具体的な対象に対応するシンボルとして単語が存在しているのではなく、具体的な対象や行為と関連付けられる脳内の表象が単語に対応する。ただ、具体的な事物が脳内で表象されるとき、他の表象ともともと結合して塊を作っている。例えばサルはappleを理解するときは常にeat appleとして表象しているらしい。この、具体的な事物や行動が脳内回路に表象されるときすでに様々な塊と様々な程度で連結しているという可能性は、言語発生を考えるとき極めて重要な鍵になると私は考えており、これも別に議論するつもりだ。

図3を確かめる実験

詳しくは述べないが、この総説の目的は、図3で示した脳内のデザインを、実際の脳に存在する回路と対応させることが可能であることを示すことだ。例えば、この総説を読んで、人工的文法(artificial grammar)を用いた新しい言語認識研究法があるのを知った。人工文法とは、自然には存在しない単語や句の並びを聞いたときの脳の反応を調べる研究だが、生成文法が提唱されて以来50年、急速に進展した脳のイメージングによりこのような実験が可能になった。

紹介されている実験を詳しく説明することは避けるが、このような方法論の進歩によって、言語を処理する際、脳内でどのネットワークが活性化されるのかがわかるようになってきた。言い換えると、言語理論と脳回路とを結びつける可能性が生まれたわけで、今後普遍文法など統語論の脳科学を進めるときには欠かせない手法になりつつある。もちろんチョムスキーも、この分野の進展を取り込み、理論を発展させようと考えている。

図4 ブローカ領域のウェルニッケ領域の脳内での位置。失語症の研究から、ブローカ領域に障害が起こると文法的に整った文章の発話が困難になる。一方ウェルニッケ領域が障害されると、言葉を聞いて理解するのが困難になる。ただ実際にはもっと複雑で、改めて紹介する。
(出典:wikipedia)

例えば、失語症の研究から文法的に整った文章を話すときに必須であることがあきらかにされていたブローカ領域(図4)は、運動性言語中枢と呼ばれ、図3で示す感覚運動回路を通した発話過程に関わっていることがわかっていた。人工的に単語を並べたセンテンスと、自然言語によるセンテンスを比べる研究から、ブロカ領域はどちらの刺激でも活性化されるが、自然言語を処理するときは、言語を聞いて理解するのに必要で知覚性運動中枢と呼ばれるウェルニッケ領域も同時に活動することなどがわかってきた。このような脳科学的データを集めることで、図3をより詳しい回路図へと仕上げることができるはずだ。

チョムスキーらも総説の最後に、言語過程には知覚性言語中枢(ウェルニッケ)と運動性言語中枢(ブロカ)に加えて、幾つかの脳領域が言語処理に関わっており、また単語や意味に関わる独立した領域も存在していることがわかってきた。これら領域のなかに具体的事物の表象がどう形成され、またそれがMergeされるのか、脳科学として研究が可能であることを強調している。この問題については、言語中枢の局在化の問題として取り上げて考えてみたい。

このように、新しいチョムスキーの総説を読むことで、脳科学として言語発生を扱うための課題を整理することができた。これ以外にも、

  1. 1)言語能力の進化と人類学、
  2. 2)チョムスキーは言語が進化するのではなく、言語能力が進化すると明快に断じているが、本当に言語自体は進化しないのか?

などについても、次回以降順次考えていきたいと思っている。

[ 西川 伸一 ]

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