1. トップ
  2. 語り合う
  3. 【『民藝』と『生命誌』】

表現スタッフ日記

展示季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。

バックナンバー

【『民藝』と『生命誌』】

村田英克
 桜が終わる前に、車で移動していくつかの温泉をまわった。春の色は若草色かと思っていたら全体にほんわかとだいだい色で、とても意外だった。点々とある桜やツツジが桃色なのはともかく、里山を覆う広葉樹の芽吹く色なのだ。こういうのを昔の人は「山笑う」と言ったらしい。そういえば古い絵巻にある春の山はそんな風だったかなと思った。
 先日、某大学が春に開花する植物と秋に開花する植物の遺伝子の違いを明らかにした。という記事を新聞で見かけた。日照時間がどんどん長くなっていく時期、つまり春に開花するシロイヌナズナと、日照時間がどんどん短くなっていく秋に開花するイネとで、開花に働くいくつかの遺伝子はほぼ同じだが、最初に発現する遺伝子の量が異なり、これが開花する時期を決めているらしいのだ。つまり「恋する遺伝子」が無いように「春咲きの遺伝子」や「秋に咲く遺伝子」も無く、違う種類の植物で個々の「要素」は同じでも、働く「量」の違いが開花という表現型の違いを生んでいるということだ。「春」の交響曲を演奏したオーケストラが、楽譜さえ変えれば同じ編成で 「秋」の交響曲が演奏できるというような事だと言ってみたくもなる。

 ここで唐突だが、『民藝』と『生命誌』はどこか通じるような気がしてならない。「民衆の日々の暮らしの中で『用』を目的として生まれ、育まれてきた品々の中にこそ必然的に『美』が宿る。」民衆の「民」と、工藝の「藝」の字からなる造語で、近代日本がもりもり立ち上がる横で柳宗悦が提唱したのが『民藝』。余談だが二代目柳宗理のつくるステンレス製のお鍋や薬罐は、古道具屋で買ってきた蕎麦猪口などと共に「普段づかい」の「勝手道具」としてうちの台所でも使っている。
 生きものは、ひとつの細胞か沢山の細胞が集まっていて、ほとんどすべての細胞にゲノムDNAを持っている。それらが日常的に働くことで生きものは生きている。日常の何でもない必然にこそ「美」が宿る。『民藝』では「用のもの」,「土にかえるもの」を良しとする。どこか『生命誌』に似てないだろうか。「平凡な当たり前のもの」の持つ「美」を明らかにしていく作業がサイエンスなのだから。
 「工藝の美の王国」としての『民藝』について柳宗悦は次の様に描いている。「ものの良さを意識する必要もなく、良いものを自然に産める道」 。先導役となる作家のもと、無銘の職人達が自然の材料を吟味、華美な装飾や主張を排し、暮らしの中の「用のもの」を求め世に送り続ける。それは「歩く」のと同じくらい平凡なこと。サイエンスでも、先導的な研究者のもとにたくさんの研究者の労があり、過去の優れた研究の上に、ひとつ、またひとつと研究が積み上がる。「工藝は、個人でなく社会の産物」であり、「工藝の美は共に生きる心から生まれる」。サイエンスもまた個人のものでなく「社会の産物」であり、その収穫は再び日常に還元されるべきものである。正しいサイエンスは「勝手道具」,「普段づかい」の器と同様、日常に「用い」られるものであり、日々の暮らしのよろこびに資するものなのである。工藝にとっての『民藝』。サイエンスにとっての『生命誌』。そう言ってしまっては気負いすぎだろうか。



[村田英克]

表現スタッフ日記最新号へ