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表現スタッフ日記

展示季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。

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【百年後のお正月】

2016年1月15日

齊藤 わか

私の生まれた家は寺です。普段は家の手伝いをあまりしませんが、今年の年末年始、久しぶりに家の手伝いをして、やる事の多さに考えさせられてしまいました。

まず8升(12kg)のお米を蒸かしてついて、鏡餅を作ります。私の生まれる前はこの量を臼と杵でついていたそうですから、「電動餅つき機」はありがたい発明です。しめ縄や鏡餅に添えるユズリハとウラジロシダは、知合いのお寺の裏山からいただいて使います。最近はシダの数が減っていて、群生する場所を探すのが一苦労です。新年の準備が終わったら除夜の鐘の準備。夜通し灯す提灯の埃を払い、鐘楼に入る小道にライトを設置し、参拝者にくばるお酒とみかんを用意します。参拝者を暖める焚き火の番をするのが私の役割です。108回つき終わっても夜更けまで後片付けをするので、元日は皆ぐったりです。

昔から続いてきた信仰や風習には、理由は分からないけれどしなくてはならないことがたくさんある気がします。子どもの頃、住職である父親に「なんでこんなおかしな事するん?」と聞いたことがあるのですが、「よう分からん」という答えでした。「意味が分からなくても守ることが大事」と言われ、腑に落ちませんでしたが、今にして少し分かってきました。信仰を伴う物事に対して「これは意味がないからやめよう」という判断はそう簡単にはできないということです。意味を考え出すと全て崩れてしまうでしょう。当初の理由があるにしろないにしろ、続けていこうという人々の思いの結果で今に至るのは確かですから、その連なりにこそ意味があると考えるようになりました。

とはいえ我が家でも、餅つきが電動になり、提灯の明かりが電球になり、参拝者に配るお酒の器が使い捨ての紙コップになりました。残していくためには変わらざるを得ない、という判断のようです。技術の進歩もライフスタイルの変化も激しい時代に、この行事を引き継ぐ未来の人は何を変えて、何を残すのでしょう(きっと悩むことでしょうが)。数百年後のお正月や大晦日がどんな姿になっているのか見てみたいですね。

[ 齊藤 わか ]

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