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進化研究を覗く

顧問の西川伸一を中心に館員が、今進化研究がどのようにおこなわれているかを紹介していきます。進化研究とは何をすることなのか? 歴史的背景も含めお話しします。

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がんのゲノム

2014年7月15日

西川伸一

10話では、無限とも思える抗原に対応する抗体遺伝子の多様性を発生させるメカニズムを進化過程を考えるための例として見て来た。同じように、遺伝子の多様化を基盤にして新しい性質が生まれる例としてがんを挙げる事が出来る。一部の例外を除いてがんの発生には必ず遺伝子の変異が必要だ。発がんに必要なゲノム変異について何がわかっているのか、先ず直腸がんの発生の典型的コースについて見てみよう。

図1がん発生に至る細胞ゲノムの変異。各列で色の変化した円は増殖促進性の変異を表している。周りの細胞より増殖性が高いことからこの細胞はより多くの子孫を残す。写真はWikimedia Commonsより。

直腸がんへの最初の引き金はAPC遺伝子の機能の喪失だ(図1第一列)。この結果変異の起こった細胞は持続的に増殖を続けるようになり、ポリープ様の腫瘤へと発展する。生まれつきAPC遺伝子の機能異常があると、図1に示すように腸の中に多数のポリープが出来る。ただこの遺伝子の機能欠損だけでは、まだがんではなく良性の腫瘍だ。周りの細胞を押しのけて拡がったり、転移したりする悪性のがんが発生するためには、rasと呼ばれる遺伝子が活性化され、p53と呼ばれる遺伝子の機能が失われる必要がある。Rasを活性化する変異では細胞増殖が亢進し(ドライバー変異)、p53機能抑制では細胞増殖が上がりすぎると働く安全機構・細胞死が起こらなくなる(細胞死抑制)。この様な細胞増殖を亢進させるドライバー遺伝子の活性化と、細胞死を防ぐための癌抑制遺伝子の不活化は、どのがんにも必要な変異だ。この他に更に別の遺伝子の変異が積み重なると、浸潤や転移を起こす新しい能力が獲得され、最終的に体中で増殖する極めて悪性のがんへと進展する。この説明では、特定の遺伝子が順番に変異を起こしてがんが発生することになる。これはランダムな突然変異の結果がんが発生すると言うイメージとは大分違う?

もしこの様な順序や秩序が必要だとすると、直腸がんでは同じ変異が繰り返し見られるはずだ。無作為に下行大腸から直腸にかけて発生した大腸がんのゲノムを片端から調べたら、このシナリオに示された変異の順序が多くのがんで見られるのだろうか?幸いがんゲノムを調べる研究が急速に進んでいる。これは次世代シークエンサーと呼ばれる技術が開発されたおかげだ。もはやこの技術を理解しないでがん研究や臨床は成立しないし、進化研究もこの技術により大きく転換している。(この次世代シークエンサー技術については次回紹介するつもりなので、読者の皆さんにはしばしお待ちいただきたい。)さて図2に紹介するのは昨年1月19日号Natureに掲載されたハーバード大学の論文(Nature, 487, 303, 2013)に掲載されていた図を改変したもので、直腸がんで変異が見られる遺伝子を次世代シークエンサーで調べ、頻度の高い順番に示している。

図2直腸がんで見られる変異遺伝子の頻度。(Nature, 487, 303, 2013の図を改変)

実に8割のがんでAPC変異が見られ、ras,p53変異は半分以上に認めることが出来る。確かに、少なくとも半分程度のがんは図1のシナリオに従って発生しているようだ。もちろんこの結果はがんの研究者にとっては当たり前のことだ。しかし変異には秩序や目的はないと考える進化論から考えると不思議だ。なぜこのようながん遺伝子の順序と言う秩序が生まれるのだろう?実は驚く必要はない。雄のクジャクの美しい羽を見れば、進化とは秩序だったデザインを発生させる過程であることがわかる。無目的に起こる変異から極めて秩序立ってデザインされた新しい形態がうまれるのはがんも個体の進化も同じなのだ。従って、比較的単純ながんの発生過程を理解することで、個体の進化過程についても多くのヒントが得られるはずだ。

この秘密を理解するため、直腸がんで変異している個々の遺伝子について見て行こう。APCの機能喪失は、1)実に8割以上のがんで見られ、2)同じ変異を生まれつき持っていると図1に示すような多数のポリープが発生し、3)高い確率でそのポリープからがんが生じると言う事実から、この遺伝子の変異が確かに大腸がん発生の最初の引き金になると考えられる。ではAPCとはどのような遺伝子だろう?図3に示した。

図3WntシグナルとAPC分子:Wnt分子で刺激前、刺激後の細胞内分子過程を図示している。

APCは正常腸管上皮の増殖を調節する中核シグナルWnt経路に存在している分子で、この経路が活性化(βカテニンが核に行かないよう)しないよう見張っている分子だ。細胞がWnt分子で刺激されるとAPCの見張機能が押さえられ、βカテニンと呼ばれる最終シグナル分子が核まで到達する。このようにAPC遺伝子の機能はWnt分子の刺激に応じて調節されているが、突然変異を起こして見張り機能が消失してしまうと、Wnt刺激とは無関係に刺激が持続するのと同じ効果が発生する。即ち腸管上皮の増殖は止まらなくなりポリープが発生する。ではもう1つの増殖促進がん遺伝子rasではどうして同じ事が起こらないのだろう?一つの理由はrasが細胞増殖とともに細胞死を誘導するからと考えられる。要するにrasが活性化されると細胞を死へと導くスウィッチも同時に入る。その結果少しは増殖できたとしても最終的にはネガティブな選択圧になる。P53も本来DNA修復などに関わる様々な機能を有しており、その機能異常は細胞にとってはネガティブな選択圧になる。ところがAPCで緩やかな細胞増殖が維持される条件が用意された上に、p53,rasと順番に特定の遺伝子異常が重なると、これまでのネガティブな選択圧だった変異がポジティブな選択圧に変換し、周りの細胞を圧倒するがんが発生する。この最終結果だけを後から見れば秩序だった過程が進んだように見えることになる。がんでも進化でも、ドライブとなる変異自体はランダムに起こるが、その運命や意義はそれ以前の進化で生まれた性質との関係でのみ決められる。連載の初めの頃、触角が足になるという大きな変化を来すショウジョウバエの突然変異について述べたが、この様なハエはおそらく感覚機能が侵され、変異は存続できない。全ての変異の運命はそれ以前に起こった進化の結果に制約される。この制約には環境の選択圧も参加しており、基本的には生命の多様性を極力減らそうとする力として働く。このため通常環境は多様性を減らそうと言う選択圧力になっており、この制約力のおかげで多くの変異は除去される。しかし環境も常に変化する。そして生命が持つ多様化への力を止めることは出来ない。こんな中で、制約と多様化のバランスに隙間が生まれる時、新しい秩序の可能性が生まれる。以前の生命体が持っていた制約力は必ず新しい秩序に反映される。これがおそらくランダムな変異から秩序が生まれる大きな要因になる。進化により生まれる新しい秩序を考えるときは常にこのことを念頭に置く必要がある。これから具体例に当たりながらこの制約+多様化=秩序について見て行こう。しかし次回は約束通り、次世代シークエンサーについて解説する。

[ 西川 伸一 ]

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