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Special Story

光合成 ─ 生きものが作ってきた地球環境

自然と身体をつなぐ回路の技化(わざか):齋藤孝

人工的な生活によって希薄になってしまった身体感覚を取り戻すことで,身体の内と外をつなぎ,人間の確かな生き方を探ろうとする齋藤さんによる,自然と人間の関係をつなぐ技の考察です。 自然の光や風を身うちに感じることは,本来誰にもできることですし, そのことによって自然と関わる軸を作ることができるのではないでしょうか。


 ろうそくの炎を見つめる。できるだけ瞬きをしないで30分以上見つめ続ける。これは瞑想法の一種だが,何日か続けて行なっていると,変化が起こってくる。ろうそくの炎はささやかなものだが,一刻一刻姿を変えるので見飽きることがない。色合いも常に微妙に変化する。炎が顔などのさまざまなものを連想させる。
 
「生命の炎」という比喩がある。私たちの身体は日々新陳代謝を繰り返しながら死へと向かっている。生きているという生命の持続感は確かにあっても,実体としての身体は,微妙に変化し続けている。ろうそくの炎もまた,炎という現象の一貫性は保ちながらも変化し続け,やがて終末を迎える。ろうそくの長さという寿命を待たずして,突風によってかき消されることもある。これもまた生命と似ている。生命は実際に,エネルギーの燃焼でもある。

宮沢賢治の描いた水彩画
「日輪と山」(資料提供=林風舎)

変化は,ろうそくの見え方だけではない。炎を長く見続けていると,ろうそくの炎を見ていない時でも心の中に炎が燃えているような気がしてくる。これは,目を閉じてろうそくの炎をイメージする感覚とは少し違う。意識的に映像を思い描こうとしなくても,からだの中に炎が燃え続けている暖かさを自然と感じるのである。

炎は自然現象であり,私たちの心とは別物だ。しかし,炎を見続けることによって,自然現象としての炎が私たちの心の中に住み込んでくる。量的な反復がやがては質的な変化を起こす量質転化が,「技」の論理である。一回見ただけでは定着しない炎のイメージも,凝視の反復によって,経験の質的な変化を起こす。自分の身体の内に炎をもつという感覚は生きている実感を支えるポジティブな感覚だ。

似たような経験として,ハミングがある。私は先頃,聴覚発声訓練のためにハミングの練習を集中的に行なった。そこでのハミングは,唇を鳴らすというよりは,頸けい椎ついから後頭部へかけての骨を鳴らすという感覚で行なうものであった。実際に骨が振動をすることを目指しているので,頭を後ろに折り曲げて骨の振動を遮断したような姿勢でもできてしまうハミングは,偽物のハミングだとされる。先生のハミングはさすがにみごとで,小さな音なのに部屋全体に響き渡る。どこが音の発信源なのかわからないぐらいに,部屋全体が音の響きで満たされる。この先生が大きなホールでハミングするのを聴いたことがあるが,このときはピアニッシモのハミングが一番後ろの客席にまで響いてきた。

ハミングの練習は,空間と自分が音の共振によってつながっているのだという実感を深めてくれた。音が振動であるということは知識では知っていたが,それを深く実感するためには,自分の骨が響く感覚を「技」にすることが必要であった。音を受け取る場合も同様だ。微妙な音を感じ取るためには,体が硬直しておらず,緩んでいる構えが必要だ。心身の構えがうまくできていないと,チューニングの悪いラジオのように,音や電波が空間にあふれていてもそれを感知できにくい。

人間の身体は,それ自体が自然そのものである。そして各感覚器官が周囲の環境からの刺激を受け取る。しかし,身体感覚にも一種の技のレベルがある。同じ環境に数人がおかれたとしても,皆が同じ身体感覚を得ているわけではない。感覚が技として研ぎ澄まされた人とそうでない人とでは,異なる環境が現出している。

自然と響き合い深く呼応し合うべく身体感覚を技化しえた人物として宮沢賢治がいる。宮沢賢治は岩手山で夜を過ごすことを好み,朝靄が立ちこめるその瞬間に法華経的世界が現出するのを感じていた。水分を多く含んだ世界は,響きをよく伝え,また光を多く反射する。世界と身体は美しい響きと光に満たされる。こうした至福の経験は普通の人間にも偶発的に訪れることがある。しかし宮沢賢治の面白いところは,こうした瞬間を自在に反復することができたということにある。つまり身体感覚が技化されていたということだ。

彼は,地水火風のすべてに関して独自の技を練り上げていた。硬い岩をハンマーで砕く感覚や刃物や宝石を研ぎ磨く感覚,あるいはどろどろの湿地をrい回る感覚など,こうしたものも単なる想像ではなく,何度も自分のからだで体験したものばかりである。

感覚は通常は一回きりのもののように思われているが,積極的に味わう構えをもつことによって繰り返し引き起こすことができる。感覚が技となって,自然と身体の間にいくつもの響き合う通路や回路ができてくると,身体がミクロコスモスだという認識がリアリティを増してくる。

齋藤孝 (さいとう・たかし)

1960年,静岡県生まれ。明治大学文学部助教授。専攻は教育学・身体論。身体感覚を中心に据えて,人間や社会を探っている。著書に『宮沢賢治という身体』『教師=身体という技術』(ともに世織 書房),『身体感覚を取り戻す』(日本放送出版協会)など。

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