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表現スタッフ日記

展示季刊「生命誌」を企画・制作する「表現を通して生きものを考えるセクター」のスタッフが、日頃に思うことや展示のメイキング裏話を紹介します。月二回、スタッフが交替で更新しています。

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【今、改めて「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」】

2017年7月18日

村田 英克

音楽劇「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」が,夏休みに、各地のスクリーンに蘇ります。舞台の全貌を記録した短編映像を各地で上映して頂くのです。一方で、ドキュメンタリー映画「水と風と生きものと」をDVDブックにまとめています。この本は、映画の内容だけでなく、上映の際に行った出演者やスタッフによるトークも含め、開かれた上映の場で改めて生命誌を考えた「ドキュメンタリー映画の記録」です。この映画の中でも「セロ弾きのゴーシュ」は大きな位置を占めています。

宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の物語に登場する主な生きものは、猫、かっこう、仔狸、そして野ねずみの親子です。「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」は、原作にかなり忠実なので出てくる生きものも同じです。「生命誌版」だからと言って、チョウ、クモ、カエル、コバチが出てくるわけではありません。ではなぜ「生命誌版」なのか。まず中村桂子館長による原作の解釈が「生命誌的」です。「町の活動写真館でセロを弾く係」の主人公ゴーシュは、昼は、町の中で「金星楽団」という組織の一員として働き、夜遅くに仕事を終えて家へ帰りますが、「それは、家と言っても、町はずれの川ばたにある壊れた水車小屋」です。この「壊れた」状況にある「人工物」の水車小屋が、野生溢れる豊かな自然の侵食を受けつつある文明化社会の周縁にある、異界との交換の「場」であるとすれば、原作にくりかえし現れる、夜、家へ帰ると必ず「水をごくごく飲」む主人公の所作(写真)が、「自然の中に入る儀式に見える」と述べる中村館長の解釈に共感できると思われます。

「仲間の楽手のなかではいちばん下手」で、「いつでも団長にいじめられ」ながらも、ひとりの人間として「渇いた」社会を実直に生きる主人公が、毎晩見せる「水をごくごく飲む」という身振りによって、彼も「水」に象徴される「自然の一部であり、生きものの一つとしての存在(ヒト)」であることが改めて示されるように感じられるわけです。

続いて、壊れた水車小屋(アジール)で、ひとりセロの練習に励んでいると、夜毎に自然界の住人(動物)が訪い、人間でありヒトであるゴーシュにそれぞれの「音楽」を求めます。実直な主人公は、その都度、彼なりの応え方で「音楽」を介して動物たちと交渉し、その過程で、主人公の中で「音楽」が変容し、演奏家としてのポテンシャルが高まります。本人、そして読者(観衆)が彼の変容に気づくのは、物語の終盤で町の音楽会、即ち「表現する」場面で、金星楽団の演奏へのアンコールに応えて、ひとりゴーシュが演奏した「インドの虎狩り」に、果たして、会場から鳴り止まぬ拍手が湧き上がる「時」です。この時こそ、「表現を通して生きものを考える」、あるいは「生きものを通して表現を考える」という行為が、社会に働きかけた瞬間です。

会場から湧き上がった鳴り止まぬ拍手は、「水」に象徴される自然の中で"いのちの音"を身につけたゴーシュが、近代化とともに自然の中での暮らしを忘れて渇いた社会を生きる一人一人の心の中に、自らも、文明化された人間である以前に、生きものの一つとしてのヒトであることを想起させたがゆえに生起したのであり、その場が「音楽」を演奏すること、そしてその演奏に「耳を傾ける」行為によって創出されるところが、この物語のもっとも生命誌的なところであるように私には思えます。

人間と動物を分つものが「言葉」だとすれば、「人間は生きものであり、自然の一部である」ことを「音楽」によって取り戻せるのではないかという思いは、改めて、生命誌研究館が「科学のコンサートホール」であるという原点を想起させるものです。「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」が、なぜ「生命誌版」であり、かつ「セロ弾きのゴーシュ」のままであり得るのか。ここでは原作の解釈を振り返りました。ほんとうは、ここから先が生命誌の世界です。原作を解釈したうえで、どのように表現をかたちにしてゆくか、その過程にこそ「生きているとはどういうことか?」を考えるルネサンスの醍醐味があるのですが、そのことは何かの機会に書こうと思います。

夏休み「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」音楽劇映画会!
夏休み{生命誌ウィーク}開催!—「水と風と生きものと」DVDブック発売記念

[ 村田 英克 ]

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