1. トップ
  2. 語り合う
  3. 研究館より
  4. 映画が生まれるまでの時間

研究館より

表現スタッフ日記

2022.05.17

映画が生まれるまでの時間

「映画」には、映画という表現媒体に固有の身体(成り立ち)があります。それは、個々の作品ごとに固有の時間の表現であると同時に、リュミエール兄弟以来の映画史、いや、それ以前の視覚と時間にまつわる人類の身体表現(例えば、旧石器時代の祭祀の場としての洞窟など)を継承する成り立ちです。ひとつの映画ができあがるその始まりは小さな「種(タネ)」です。そこから、だんだんと育って身体ができあがります。映画の身体のつくりでとくに大事なのは、「始まり」と「終わり」です。これは作品全体のおおまかな構造が見えてきた段階で、自ずと決まってくることが多いのですが、いろいろな可能性のトライアルアンドエラーの結果、最後の最後に決まることもあります。映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」の場合には、どのように終わるかは、かなり早い段階で、実は「種」の段階から決まっていました。でもどのように始まるかが定まったのは最後の最後でした。

映画は、最初の「種」から時間をかけて育ってゆきます。物語の「節」ごとに形となり、節と節が響き合い、大きな構造をとってゆきます。一旦できたかに見えた形が壊れ、思いがけず別の形に編成されることもしばしばです。この映画の場合は、種から発芽して、ほぼ一年半で、なるようになりました。でも、発芽前、土の中で、5年ほど眠っていた時間がありました。

どのような映画になるのかは、その映画が具体的にできあがってゆく過程で決まってくるわけですが、ふりかえって思うに、「そもそも、これは何なのか?」は、種の段階で既に決まっていたということです。後からできることといえば、途中でやめないことと、種を、なるたけ素直に、伸び伸び育つように手助けしてあげることです。

そして、できあがった作品を、映画館でスクリーンに映写してもらうためには……実は、ここからが「本当のクリエイティブ」であると思います。映画に限らず、何であっても、つくっただけでは作品ではありません。その作品は一体何なのか? 伝えたいことは何なのか? をもう一度、二度、三度……改めて自分の言葉で語り直す。あわせて、作品に共感してくださる人々によって、それぞれの目線から、客観的に言葉や絵や…さまざまに表現していただく…それらが響き合う働きを編成(演奏)することで、作品が生きる場を開墾し続けていかなくてはなりません。

今年の夏に始まる「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」ロードショー公開は、ほんとうにたくさんの方々のお力添えによって実現することができました(できそうです)! 作品自体も、皆さんの力で、日々、成長していることを感じています。

それで私が先ほど、種の中に既に入っていたと申し上げた「そもそも、これは何なのか?」は、恐らく、どれほど言葉を尽くしても、語り切ることはできません。映画を見ていただくほかはないのだと思います。ですので、皆さん、ちょっと面白そうだなと思っていただくことができましたら、労を惜しまず、是非とも、お近くの映画館まで足を運んで、本作をご鑑賞くださいますよう、平にお願い申し上げます m(_ _)m 。

記録映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」
公式ホームページ
公式Twitter
「映画というものは。」村田英克
「目をあわせること、聞くこと」村田英克
== 関連リンク(表現日記より)==
「生きものの言葉」村田英克
「食草園-自然界に開く窓」村田英克
「生きものから生きものへと」村田英克
「腑に落ちる映画の形を求めて」村田英克
「『えきやく』に寄せて」村田英克
「『生命誌の思い』ほか」村田英克
「表現として継承される物語り」村田英克
「トマトの美味しい季節に」村田英克